阪神・淡路大震災や、沖縄問題など社会問題を取り上げてきたバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のボーカリスト中川敬さんはこのほど、東日本大震災支援ライブや脱原発の行動に参加するなかで作った曲などをまとめたソロアルバム「銀河のほとり、路上の花」を発表しました。中川さんに、脱原発の運動やアルバム制作にかけた思いを聞きました。

デモでの出会いをタイトルに

―タイトルはどう決めましたか?

「ソウル・フラワー・ユニオン」中川敬さん

 3・11以降、東北の被災地や、関西、東京のデモに参加してる中での、忘れ難い出会い、自分の中から抜き難い原風景を、タイトルにできないかと思っているうちに「銀河のほとり」と「路上の花」という2つの言葉が浮かんで、並べることにしたんよね。

―デモに参加して感じる変化は?

 長い間、社会に異議申し立てをしてこなかった日本人が、原発の問題を通じて、1人ひとりが考え、危機感を感じて、動員でもなんでもなく自ら行動を起こし始めた。
 福島第1原発事故の原因すら追求されず、責任問題も賠償もあやふやなままで、政府や関電は大飯原発を再稼働させた。でたらめにもほどがある。
 でも市民は、使用済みの核燃料の問題も含めて、原発行政を続けていることが不可能なことを、もはや見破ってる。既得権益を持っているひと握りの連中がジタバタしているだけで、「こんな奴らに私たちの未来を託せない」って、みんなが声を上げ始めた。

―今までに参加してこなかった人もデモに参加していますね

 かつて市民に違和感を持たれていたデモのイメージが変わり、原発事故以後、子連れのママさんでも気軽に参加できるものになった。首相官邸前に20万人、関電本社前に2700人もの人が集まった。間違いなく、原発にしがみつく国策を変えるときがきた。

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こぼれたものを見る

― アルバムで表現したかったことは?

 この1年間、デモや抗議の現場に頻繁に行く中で、プラカードの余白の部分をこそ歌いたいという感じが強くある。特に、小泉内閣以後のワン・フレーズ・ポリティクス。どんどん人間の顔が見えなくなってしまってる。そこからこぼれたものを見ることにこそ芸術の役割があるんじゃないかなって。勇ましい言葉のむなしさっていうかね。

―そう考えるきっかけは?

 阪神・淡路大震災直後の1995年2月10日。西灘の避難所で演奏したあとの、おばちゃんのあるひと言があって。その日初めて沖縄の三線を持って民謡や壮士演歌を歌った。演奏後、おばちゃんが寄ってきて、「お兄ちゃん、震災で夫も子どももみんななくした。みんなそうやから、3週間ボランティアやっててん。にいちゃんの歌でやっと泣けたわ」って。在日の人で、俺の歌う「アリラン」のことを言ってた。ニカッと笑って「お兄ちゃん、ありがとうな」って俺の背中をたたいて去っていった。そのとき、俺、この活動を続けようって思ったんよね。

自分を押し殺してきた人々

─東日本大震災で思い出に残る出会いは?

 震災後の5月。初めて演奏にいった女川(宮城県)。町全体が津波で壊滅状態。避難所の体育館で演奏を終えると、60歳ぐらいの男性が握手を求めてきて、「音楽っていいね、音楽っていいね」って2度言って、そのままそこで泣き崩れはった。掛ける言葉もなくてね。あとで聞くと家族も家も仕事もなくした漁師の人やった。避難所はプライバシーもないし、自分の感情を押し殺さざるを得ない。音楽がきっかけになって感情が吹き出したっていう感じやった。
 そんないろんなエピソードを思い出しながらレコーディングをしてた。みんないろんな現場で奮闘している。今がんばれない人もゆっくり休んだら自分の出番がそのうちくる。そんな、正誤を越えた、清濁合わせ呑んだ、人間のうたがつくりたかった。

なかがわ・たかし
 1966年、西宮市生まれ。93年、「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成。ロックやパンクなどをベースに、日本の民謡や大衆歌謡、世界の民族音楽などを融合した独自の音楽を創作。95年、阪神・淡路大震災後、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」の名で出前慰問ライブを開催。東日本大震災後、「ソウルフラワー震災基金2011」を立ち上げ、被害地で支援とライブを行っている。