蟷螂山(とうろうやま)は、祇園祭三十二基の山鉾の中でも老若男女問わず人気があります。歴史は古く、かまきりが大きな敵に立ち向かう勇猛な姿を賞した中国の君子の故事を出典とし、これと足利義詮軍と戦い戦死した四条隆資(たかすけ)卿の武勇ぶりを蟷螂に見立て、永和二(一三七六)年に四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりだとされています。江戸時代の「洛中洛外図」にもよく描かれており、当時から人気の山だったようです。このかまきりは祇園祭で唯一のからくり仕掛けで、御所車の上で生きているかまきりの様に動きます。
元治元(一八六四)年七月十九日、会津・薩摩両藩と長州藩とが争った禁門の変(蛤御門の変)による「どんど焼け」で他の山鉾と同様に蟷螂山も類焼し、明治五(一八七二)年の寄町制度の廃止により財政的に苦しくなり、巡行から離れ、町内で展示するだけの「居祭(いまつり)」を行ってきました。そして昭和五十六(一九八一)年に地元町内の依頼で七代玉屋庄兵衛により新しいかまきりが制作され、巡行に再び参加するようになりました。
初代玉屋庄兵衛は、京都で鶴などの動物からくりを得意とする細工人で、名古屋の伝馬町の林和靖車の鶴からくりが縁で名古屋に定住することになったとされています。
依頼を受けた七代目は、まずかまきりの生態を知る必要があると考え、岐阜市名和昆虫博物館を訪れましたが、標本化され動かないかまきりしか展示されていなかったため、自らかまきりを採集し、かまきりの生態を詳しく観察したそうです。そこで完成したのがリアルな動きを再現した大蟷螂です。大きな目で周りを見渡し、斧を振り上げたり、勇ましく振り下ろしたり、羽根を羽ばたかせるなど複雑なからくり仕掛けなため、現在でも九代目が名古屋から訪れて弟子とともに操作を担当しています。
平成二〇年四月には、京都市文化財保護条例に基づき、蟷螂山保存会に伝わる江戸期巡行時の遺品である御所車、旧かまきり、御所車の旧胴掛、旧胴組用角飾り金具など計十三点が京都市有形民俗文化財として指定されました。しかし指定されても山の維持や管理はなかなか大変なことです。伝統をただ単に次代へ伝えるだけでなく、必要があれば現代に即した形に変えていく必要もあり、難しい問題が山積みといえます。ボランティアや留学生が担ぎ手となっている山鉾が増えている中、山の住民だけで祭りは維持していくものだという考えから、蟷螂山では新しいマンションの住民とも協力しあいながら運営しています。
しかし山鉾連合会からの巡行補助金はあるものの、財政的には厳しく、山の授与品は工夫が凝らされ、折り紙でかまきりを作ったり、毎年新しい手ぬぐいを製作したりと新しいことにチャレンジしていっています。これら伝統を踏まえた上での工夫が、昨年度には行列が出来るほどの大人気となったかまきりのおみくじを生み出しました。山を何とか支えていこうという心意気こそ変わらず伝えられていく伝統なのではないでしょうか。