日本とマレーシア結ぶ平和の架け橋に ズルキフリ・アブドゥル・ラザクさんが初めての墓参/父親がオマールさんと共に留学し被爆
左京区の圓光寺「語る会」と交流も
第二次大戦中の「南方特別留学生」の一人で、広島で被爆後、京都で亡くなったサイド・オマールさん。オマールさんと同じ広島で被爆し、母国マレーシアに戻った故・アブドゥル・ラザクさんの長男が、昨年12月22日に来日し、オマールさんの墓がある京都市左京区の圓光寺に家族と初めて墓参しました。
墓参に訪れたのはズルキフリ・アブドゥル・ラザクさん(70)と、家族の3人。ズルキフリさんはマレーシア国際イスラム大学の学長を務めています。来日は、共同研究や教育を通じて寄与する国連大学(東京都)の総会に参加するためでした。総会翌日、短時間でもと急きょの墓参となったものです。
圓光寺では、オマールさんをしのび、平和活動を続けている「オマールさんを語る会」(早川幸生会長)のメンバーら十数人と交流。早川さんらがオマールさんの肖像画や小学生が描いたオマールさんの紙芝居、命日に営んできた法要の様子、50年前にズルキフリさんの父親が来日した時の写真などの資料を見せて説明。会のメンバーが作った絵本『オマール王子の旅』を手渡しました。
ズルキフリさんは、感謝の言葉とともに10年前に亡くなった父親について述懐。父はマレーシアの大学で日本語を教えるとともに、被爆体験を語り継ぎ、毎年8月6日には広島への原爆投下について語るなど、平和の大切さを伝え続けてきた教育者だったと振り返り、「戦争は国と国が起こすというより、身勝手な特定の人たちが起こすものだと思います。人と人の関係を作ることが大事で、憎しみを持ってはいけない。私は大学の学長として、持続可能な平和の基礎を作っていきたい」と語りました。
早川さんはマレーシアが核兵器禁止条約の採択直後の2017年9月に署名し、20年に批准したことについて質問。ズルキフリさんは同条約を批准するよう大学からも政府に強く申し出たと述べると拍手が起きました。
生誕100年で広島の被爆者と交流も
父が住んでいた家はガン協会に寄贈し、記念館となっているとして「来年(2024年)は父の生誕100年。父の本を作ろうと思い、父と交流のあった広島の被爆者と交流予定です。皆さんの作った本や資料も展示し、平和の架け橋となりたい」と話していました。