戦争の準備は学問・表現・言論の自由を奪うことから始まった 不戦のつどい 岡田知弘京都大学名誉教授の記念講演〈要旨〉
1月5日付(2025年新年号)2面に掲載した、「不戦のつどい 岡田知弘京都大学名誉教授の記念講演」の記事で複数の間違いがありました。いずれも編集部による誤りでした。訂正した記事全文を掲載します。
研究者弾圧の先に戦争がある
戦争への道阻むのは市民の運動
太平洋戦争開戦83年に先立ち、京都市内で昨年12 月7日に開催された「2024年 不戦のつどい」(同実行委員会主催)で、京都大学名誉教授で、京都橘大学教授の岡田知弘氏は「戦争の準備は学問・表現・言論の自由を奪うことから始まった」と題して記念講演しました。講演の要旨を紹介します。
20年代・30年代と酷似している今
岡田氏は、『京都大学百年史』『京都大学経済学部八十年史』『京都大学経済学部百年史』の編さん作業に携わるとともに、京都市左京区下鴨にある、ノーベル物理学賞受賞者・湯川秀樹氏旧邸の保存と活用の活動を行ってきた経験を踏まえて講演しました。
安倍・菅・岸田・石破政権の下での集団的自衛権行使容認の閣議決定をはじめ、安保法制強行、「安保3文書」改定の閣議決定、日本学術会議会員の任命拒否や教授会自治を認めない国際卓越研究大学制度の整備などが進められ、「新たな戦前」とも言える事態が進行していると指摘。
これらの流れは、戦前の河上肇・京大教授への辞職勧告を巡る事件(1928年)や、京大・滝川事件(33年)など、20年代・30年代と酷似していると述べ、「戦争への危険度は黄色から赤色のシグナルに変わっているのではないか」と警告しました。
岡田氏は▽前史―京都帝国大学法科大学の設立と大学の自治を巡る攻防▽大正デモクラシー下の「パラダイス」▽時代の暗転 「京都学連事件」から「河上事件へ」▽滝川事件から『世界文化』『土曜日』弾圧事件へ▽戦時体制下の科学動員と戦争協力への道▽戦後の教授陣による反省―などを柱に、京都大学の歴史を概観。
たたかいの中で大学の自治実現
京大法学部の前身、京都帝国大学法科大学が、西園寺公望文部大臣の「京都の地に自由で新鮮な、そして本当に真理を探究する学府としての大学をつくる」との期待に基づき1899年に設置され、1900年以降に経済学関係の講座も次々開設されて、新聞記者出身の河上肇らが講師陣に入ることで研究活動が活発化したことを紹介。
1910年代前半には、大学の自治を掲げ、総長の学内互選を求める教官と、総長指名は政府の権限とする文部省の対立の末、教授会による教授・総長の任免権が獲得されたことの意義を強調しました。
岡田氏は、大正デモクラシー下における京大について言及。学制改革で、法科大学から法学部が誕生し、経済学部が分離独立するなか、経済学部は「経済学者のパラダイス」と言われるほど、学術論争が活発化したなどと語りました。
学生分野でも全国の大学や高校で、社会科学研究会などが組織され、22年に学生連合会(学連)が結成されたほか、京都でも、京大で、河上肇を慕って経済学部に入学した岩田義道、逸見重雄らが22年、伍民会を結成(のちに社研に改称)。同志社大学など全国で社研が組織されるなか、24年、社会科学連合会(学連)が結成されたことを紹介。
25年から強まった学術への攻撃
25年5月に治安維持法が制定されて以降、同年12月に京大や同志社の社研に対する弾圧「京都学連事件」以後、河上肇への辞職勧告、滝川事件など、政府による学術分野への攻撃が強まったことを解説しました。
京都学連事件は、25年、出版法違反の容疑で京大生など36人を拘束したもので、翌年1月から4月にも、学生のみならず、学連のリーダーとみなされた野呂栄太郎も慶応大学卒業翌日に治安維持法容疑で逮捕されました。
岡田氏は、これは、植民地以外で治安維持法が適用された初めての事例であると指摘しました。
河上肇への辞職勧告は、28年3月に共産党関係者への大弾圧「三・一五事件」で京大関係の社研会員に逮捕者が出たことを受け、指導教員だった河上の責任を追及する形で出されたものです。
岡田氏は、文部省が逮捕学生の処分や「左派教授」への対応、社研の解散などを求める省議決定をし、荒木寅三郎総長に河上の辞職を迫ったことなどがあると指摘。河上は大学からの辞職勧告は拒否したものの、経済学部教授会による辞職容認決議を受け、自治擁護の立場から受け入れたと説明しました。
滝川事件は、内務省が滝川幸辰教授の著書『刑法講義』『刑法読本』を出版法違反として発禁処分にしたことを受けて、京大が滝川教授を罷免した事件。
これは、32年と33年に裁判所の判事・書記など10人以上が治安維持法違反容疑で逮捕された「司法官赤化事件」を契機に、右翼団体や、政友会議員らが、滝川教授らを「赤化の元凶」などとして罷免を要求。これを受けて、文部省が滝川教授の休職処分を強行したことに総長、法学部教授も反発したものの、最終的に、次期総長が処分するという経過をたどりました。
岡田氏は、京大教授が狙われた背景に、河上事件以後も京大では学生運動が活発で、治安維持法違反などでの学生の検挙や処分は全国的にも群を抜いていたことがあると指摘し、「マルクス主義思想に続き、大正自由主義の理念も圧殺された」と述べました。
戦時体制下における京都大学の状況について言及。経済学部では、国策に便乗した「東亜経済研究所」が発足して外務省、海軍省からの受託調査を開始したことなどや、医学部では、中国東北部ハルビンに創設され、人体実験をおこなった731部隊に教授陣が深く関与したほか、理学部では、湯川秀樹も参加して原爆の基礎研究などが行われたことなどを解説しました。
湯川氏が「世界」につづった反省
戦時中の京都大学における戦争協力について、戦後、教授らが行った反省などについて語りました。経済学部では、戦前に教授会が河上の辞職を認め、多くの学生、教員が犠牲になったことを反省して総辞職し、学部の意思決定機関を教授会から、教官協議会に移し、学生協議会や事務職員協議会を含む三者協議会制へと発展させたことを紹介。
さらに、敗戦直後に発行された月刊誌「世界」(岩波書店)創刊号に、湯川秀樹が寄稿した随想で、「知識階級」の果たすべき役割は嵐の前に危機を察知し、国民を守る「防護林」のようなものであり、戦前、国家はこれを〝伐採〟して戦争の道に突き進んだとし、「知識階級」の自立性などの重要性をつづっていると解説するとともに、54年のビキニ事件以後、湯川秀樹が核兵器廃絶運動に尽力したことを紹介しました。
「戒厳令」止めた韓国国民の運動
岡田氏は、政府にとって、国民全体を組織的に戦争に動員するために、〝モノ言う〟研究者やジャーナリストが障害だとされ、これらの人々を弾圧することで戦争が押し進められ、多数の犠牲者が出た歴史を繰り返してはいけないと強調。
改憲勢力が実現を目指している緊急事態条項は、集会や出版などの自由を奪う危険なものであると警告するとともに、戒厳令を6時間で解除させた韓国国民の運動も紹介し、「戦争への道に向かうのを止めることができるのは国民、市民の運動。歴史から学び、今の政治・民主主義の在り方を問い、次世代に平和な日本をバトンタッチすることが大事だ」と訴えました。