龍谷大平安高硬式野球部創部100周年記念試合観戦記(5)芳村智裕
スピードガンのない時代の「江川は速かった」、10年前の「松坂は高速スライダーがすごかった」と振り返りながら、高校時代の新旧大物エースを比較して評する。これが昔から見続けている高校野球ファンの楽しみのひとつである。
高校時代の江川を知っている。しかも、この目で観たことがあると言ってしまうのは、その時代から今まで生きてきたという証であり、自慢でもある。こちらは当然観たことがないので「実際はどうだったか」と聞いて感心している。
何十年も前の話は想像がつきにくいことだが、平安には60年代終わりに「エジマ」という名の1年生左腕エースがいたそうだ。「優勝候補だったが負けてしまった」と知った。
「(甲子園で)平安は新興勢力に弱い」というエピソードも聞かせてもらった。また「甲子園に出ても途中で負ける。勝ち切れない」と期待されながら、結果的に途中で敗退してしまう平安の姿を思い浮かべているようだった。
特別に名前が挙がったのは兵庫の報徳学園だった。報徳学園戦にも因縁があるらしく、昨秋の近畿大会1回戦(奈良県立橿原球場)で平安が勝つ(1点差)までは何連敗もしているそうだ。これは何かの雑誌で読んだ記憶はあった。
試合は3回表松山商の攻撃中だが、ライト前ヒットの選手がまたもけん制球でアウトになった。「平安にはそんなに詳しくない」と言うのだが、松山商の攻撃のちぐはぐさに納得がいかない。報徳学園からの話の流れで7年前の準々決勝のより詳しい話をしてくれた―。
夏の準々決勝、松山商と平安の試合は今から7年前に行われた。何度も言うように、松山商との因縁は昭和初期から始まっている。もちろんこの時代を知っている人などもうほとんど生きていないだろう。だが、30年以上も経った直接対決、69年の国体も再試合の末、平安が敗れた。そういうことが平安野球部内では伝統的に世代を超えて伝わっているのではないだろうか。7年前、あの試合を甲子園で観ていたが、試合後のバックネット裏では異常なほどのヤジが聞こえた。平安には勝たないといけないプレッシャーがあったのではないか。ファン、OBが殺気立っていた光景は印象深い。
「夏の勝利数は、1位中京、2位松山商、3位平安。春を足すと平安が松山を上回る」という甲子園の通算成績を聞いたところで、ようやくこの試合の意味が大まかに輪郭となって浮き上がってきた。伝統校や古豪と呼ばれているチームの重みが少しずつ自分にも溶けていく思いだった。試合に臨んでいる選手らには今日はいつにも増して、というところだろうか。
おじさんは「松山商にとっては中京が天敵だ」と教えてくれた。
「春に勝って、夏の決勝は延長で負けた。そして、春夏連続優勝を阻止された。それに負けてから3連敗した」。いつの時代の話をしているのかも、もう確かめようもないが、このおじさんのその記憶を信じることにしよう。なぜそんなに古いことをしっかりと覚えているのか不思議でならなかったが、「昔はインターネットなんてなかった。小さいときに新聞をじっと読んで覚えた知識というのは忘れない」。この言葉を聞いて納得させられた。(つづく)