満州で父と母をなくし 平和のための戦争展で講演会
「第30回平和のための京都の戦争展」(立命館大学国際平和ミュージアム)で4日、平和遺族の会主催の講演会が催されました。
終戦時に満州からの引き揚げたひらのりょうこさんが 「満州で二人の母と父を亡くして~離ればなれになった家族」と題した講演と満豪開拓少年義勇隊で満州で看護婦として従軍した傍島恭子さんの「14歳でハルピン中央病院看護婦要請書へ、その後私は…」と題しての話が行われました。100名を越える参加者が熱心に聴き入りました。
同遺族会の倉本頼一代表世話人代理が司会し、大坪政明事務局長の開会挨拶で「日本軍が仕掛けた柳条湖事件から対中全面戦争から真珠湾攻撃、第2次世界大戦へと進んだ15年戦争、日本政府は満州に傀儡(かいらい)政権をつくってドンドン満州に日本人を送り込んだ。戦争では350万人、侵略したアジアの人達は2000万のいのちが奪われたと言われています。しかも、この方達はすべて家族があったんですね。そんな中から満州での戦争犠牲になったお二人からお話しをしていただきます」と述べました。
ひらのさんは遺族とは何かと繰り返し考えたこと、見たことのない父を心のどこかでずっと思い続けてきたこと、生みの母、育ての母、そして京都西陣に引き上げてからの母の自殺未遂、戦中戦後を生きる女たちの苦悩、旭丘中学生時代の民主教育にふれ、保育者として、そして坪井繁治・栄夫妻から学んだ詩人会議での詩作活動などいきいきと述べました。満州での引き上げ途中「『侵略した国の子どもにお乳をもらい、おやつもくれたんだよ』と伯父が語った」こと「末川先生の『教え子を再び戦争に送るまい』」の教えにとても感動し、自分の生きていく道は何かを考え、満州で生き抜いてきた女性であっただけでなく自分の道、平和への道を子ども達と生きていきたい」と産みの父母の写真を見つめて切々と話しました。
傍島さんは14歳の春に大きな夢と希望を抱いて満州青少年義勇軍ハルピン中央病院附属看護婦養成所に入所し、終戦から引き上げ途上の出来事やいつまでも頭に焼き付いている無惨な状況を説明。いずれの国民も、戦争の加害者も被害者も戦争犠牲者であり、日本政府の「侵略戦争とは言えない」という発言などに強い憤りを感じる。同時に戦争は2度とさせてはいけないとあらためて思います」と訴えました。
参加者した若い女性は、「中国での戦争のお話はすごくショックなお話でした。でも聞けてとても良かった」と感想を述べました。戦後65年経た今なお、戦後は終わっていないということを感じた講演でした。(仲野良典)