ジャンル越え柔軟に模索

 今年もさまざまな出来事があった。しかし、私にとって最大の事件は千之丞さんの急逝だった。たしかに87歳といえば十分高齢だが、元気だっただけに、ショックだった。
 彼は狂言大蔵流の名家、茂山千五郎家に生まれた。しかし、狂言一筋にその芸を守るという人間ではなかった。伝統的な狂言をどう現代に活かし、次代に伝えるかを常に考えていた。
 戦後、アメリカ文化の奔流の中で、日本の芸能をどう対処してゆけばよいのか、真剣に考えていた。能・狂言だけでなく、歌舞伎、文楽、舞踊、落語、喜劇など、同世代の芸能人とジャンルを越えて、論じ合い、互いの舞台を見て互いに批判し、模索し合った。それもただ硬直一点張りではなく、柔軟で、祇園で酒を飲みながらであったり、お遊びのイベントもやった。「上方風流」(かみがたぶり)という同人誌も作った。

協会の退会勧告を拒否

 千之丞自身も、タブーとされていたラジオ、テレビ、映画、オペラ、前衛的な実験演劇にも参加した。能楽界の保守派からは常にヒンシュクを買っていた。日生歌舞伎に出た時には、能楽協会から退会勧告も受けたが、彼は断固拒否して出演した。「芸が荒れる」という批判には、本格的な舞台で実力をもって反論した。とにかく異色の狂言師であった。
 1993年、彼は、観世寿夫記念能楽賞を受賞した。彼の狂言師としての真価が、全国的に承認されたのである。お祝いの会が催された呼びかけ人は、21京を創る懇話会。その会に出席した能楽師は、兄千作、息子あきら、弟子丸石やすしの3人だけだった。司会者から「集っているのは寿夫賞とは何か知らない人ばかりなので、まずそれを説明してくれ」と頼まれた。

政治的に旗色は鮮明に

 彼は反体制、反権力、反戦の姿勢を貫いた。彼に『狂言役者・ひねくれ半代記』(岩波新書)という著書がある。これは実は、1985年10月から87年6月まで「京都民報」に90回連載された文章がベースとなっている。その前にも、1975年に「京の狂言師」というエッセーの連載がある。その他何回も随想やインタビューに登場している。いわば、本紙とはお馴染みだったのである。
 京都薪能の創始、市民狂言会の継続、最近では、時代祭・室町時代行列の復活に際し、相談にも関与している(これまで時代祭には、室町時代は逆賊足利尊氏の幕府時代だというので省かれていた)。彼は、京都の文化に多大の貢献をしていたのに、京都市・府の賞とは長い間無縁だった。「千之丞はアカやろ」という議員の反対があったからだという話だ。真偽はとにかく、ありそうな話だ。彼は政治的に旗色は鮮明にしていた能楽師だった。しかし、一党独裁にも反対だった。

親しまれる狂言の普及めざす

 還暦の歳に生前葬をやり、死装束の亡者本人のお別れのあいさつがあって、舞台に立てられた棺桶に入り、葬儀委員長・朝比奈隆のお別れの言葉、友人代表・梅原猛の弔辞、桂米朝のお手向噺「地獄八景亡者戯」が一席あった後、ピンクのジャケットに着替えた再生千之丞が棺桶から飛び出し、当時流行していた梅沢富美男の「夢芝居」をマイク片手に歌って踊って、めでたくお開き。だから、その年生まれた孫の童司とは同い歳だといって、十三参りも成人式も一緒に行った、そんな洒落家であった。
 千五郎家がモットーとしている「お豆腐主義」、誰からも親しまれる狂言の普及にはトップに立っていた。若い世代の狂言師の行動にも理解もあった。彼自身が若々しかった。堅苦しいのが嫌で、いつもノーネクタイ、ハンチングを愛用していた。本当に残念だ。(「週刊しんぶん京都民報」12月26日付)