淀城の内堀に咲くハス
伏見桃山城の廃城に伴い桂川、宇治川、木津川の三川が合流する京都と大坂の水陸の重要な結節地点に築城された淀城。当初の藩主は何度も入れ替わりましたが、1633(寛永10)年に春日局の子孫、下総佐倉の稲葉正知が入城し明治まで代々稲葉氏が引き継ぎました。
鳥羽伏見の闘いで将軍徳川慶喜が敗走して立ち寄りましたが開城しなかった話は有名です。秀吉側室の淀君(茶茶)ゆかりの淀城は、現在の淀城跡でなく現在地より北方にありました。
明治に廃城になった淀城は、石垣と西と南側の内堀のみになって荒れるがままに放置されていました。近年、地元のボランティアが泥沼化していた内堀にハスなどを移植し、きれいに整備されました。小さな水車は模型で、江戸時代には直径8メートルもあり、その位置も大規模な河川改修以前の桂川に面した西と城の北側を流れていた宇治川に面していた濠(堀)の二ヶ所に取り付けられていました。(仲野良典)
「淀の川瀬の水車(みずぐるま) 誰を待つやらくるくると」(狂言『靫猿(ウツボザル)』より)