2010年は、日米安保条約が改定されて50周年の節目の年です。1972年の沖縄返還の原動力は、沖縄県民と、それと連帯した本土のたたかいでした。京都では、府民のたたかいが大きく広がり、これと結んだ蜷川民主府政の行動が京都と全国の運動を励ましました。歴史的たたかいを振り返ります。

4日間かけ海上大会で連帯

 「第二次大戦において最も犠牲をしいられた九十六万の沖縄県民がいま憲法の下にないこと、すなわち、国民主権と平和と基本的人権のいずれをも保障されていないことに、私たちはいいようのない感情を抱かざるをえません」
 1968年8月14日、京都府庁で、蜷川虎三京都府知事と美濃部亮吉東京都知事が発表したアピールの一部です。アピールは、「私たちは次のことを確認しました」として、沖縄県民との連帯をこう宣言しました。
 「沖縄の自治の現状について、一千百万の東京都民、京都府民が当面する基地問題、人権問題、核問題はいずれも沖縄県民が誰よりも先に、そして深刻に当面している課題であることを忘れない」
 当時沖縄は、アメリカのベトナム侵略戦争の前進基地となり、北爆でじゅうたん爆撃を繰り返すB52の発進基地でした。

京都からも北緯27度へ

 沖縄県民と本土、京都府民の連帯。サンフランシスコ条約発効の日、4月28日は沖縄デーとして毎年、沖縄と与論島間の北緯27度線上で海上大会を持ち、沖縄県民と本土代表とたたかいの連帯を固め合います。
 海上大会に参加した京都の労働者はその感想をこう記しました。「京都から四日間もかかってやっと沖縄の代表に逢えたと思うと胸が熱くなり、声がうわずってきた。『沖縄民青がんばれ』、『新婦人がんばれ』、『人民党がんばれ』、『農民代表がんばれ』のうずの中で本土の代表と沖縄の代表の手がのび、握手をする。泣いている人もいる。…沖縄・小笠原返せを要求して海上でかたく手を握り合っている。…沖縄を返せは日本独立をかちとるたたかいである」(佐次田勉著『怒りの島―沖縄―』)

3知事連名で批判する声明

 日米両国政府による沖縄返還交渉が大詰め迎えた71年。京都では、核も基地もない沖縄の無条件・全面返還を求めるたたかいが府内各地で取り組まれました。
 そして、5月31日、京都市左京区の京都会館で開かれた府主催の「憲法記念府民のつどい」には蜷川、美濃部、黒田了一の京都、東京、大阪の革新3知事が出席し、それぞれ記念講演。このあと、同会館で記者会見し、沖縄返還交渉の内容を批判する連名の声明を発表しました。
 声明は、沖縄返還の3つの条件として(1)火薬のにおいを追放する平和(2)民主主義の基礎としての自治権の確立(3)基本的人権、とくに住民生活の保障をあげ、沖縄県民の不安と憤激を当然のこととするとともに「そういう復帰では、憲法そのものがじゅうりんされることに通ずるおそれがある」と厳しく批判しました。(つづく)