倉岡愛穂墓前祭 清流宇川を見下ろす丘にある京丹後市の倉岡家の墓地で7日、第4回倉岡愛穂墓前祭が開かれました。
 倉岡愛穂さんは、丹後の教師でしたが、神戸市に転任し、青年教師の指導者として活動していました。75年前の1934年(昭和11年)12月、中国への侵略に反対する人民戦線運動に参加した倉岡さんは、治安維持法にふれる国賊として神戸の特高警察に逮捕、106日にわたる拷問の末、虐殺されました。御影署に死体の引取りに赴いた教師の兄弟に「死亡は秘匿せよ」と警察は厳命、遺族は生家近くの松林の奥に「遺骨」を敗戦後まで秘匿していました。国賠同盟に甥御さんたちが参加し、同盟京丹後支部も結成され墓前祭が開催されるようになり今年で4回目の開催となりました。
 墓前祭は、京丹後市市長、市議選挙の直前でしたが、39人が参加。弔辞は国賠同盟岡本会長・教組・丹労連・各代表兵庫は木津氏がささげました。国賠同盟・教組・丹後労連・農民連・府職・農民連・共産党など13団体の実行委員会が献花など準備しました。(岡本康)

追悼の言葉

 倉岡愛穂さん。第四回墓前祭にあたり、私は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部を代表し追悼の言葉をささげます。貴方が、日本の天皇制政府がおしすすめた中国侵略に反対する神戸の青年教師たちの指導者として、1936年の暮れ、神戸御影警察署の特高に逮捕され、その日から拷問されつづけられ、1937年4月9日に、警察署長による拷問によって生命がたたれました。貴方が教育者として優れた方であり多くの教師から深く尊敬された方だったことは、多くの資料によって明らかにされています。貴方が虐殺されて後、日本は、中国への全面侵略を開始、日本軍国主義は、世界相手の大戦にまで戦争を拡大しました。その結果、日本国民は300万人以上、世界諸国民も2000万人以上の犠牲を強いられたのであります。日本軍国主義がおかした侵略戦争、誤りの歴史を私たちは片時も忘れたことはありません。貴方を虐殺した治安維持法による犠牲者は、数十万人にも上りますが、国は、戦後66年もたつ今日も、犠牲者への謝罪も賠償もしておらず、治安維持法が人道に反する悪法だったことも認めようとしていないのであります。国民の期待をになって登場した民主党政権は、自民党・公明党の政権と変わらず、アメリカ言いなり、財界本位、国民生活無視の政治を採り続け、国民の暮らしはますます悪くなっています。一千年に一度と言われる東日本の大震災と原子力発電所の倒壊による国民の苦難は加重する状況であります。この苦難をとりのぞくため私たちは頑強に平和な暮らしを守り戦っています。国賠同盟は、今国会の5月8日、全国的な取り組みとして治安維持法犠牲者に国は謝罪と賠償を求める署名簿を携行し請願に赴きます。倉岡愛穂さん、私たちは京丹後市の皆さんとともに固くスクラムを組んで生涯かけて戦い抜く決意です。どうか安らかにお眠りください。

2012年4月7日
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部会長 岡本康