倉林明子物語(1)誠実、熱い心の原点に 福島で党つくった父
8日午前7時半、山科駅前。気温0度。「故郷を奪われ、帰ることのできない避難者が16万人います。放射能におびえ、逃げることもできずに子育てしている家族がいます」。マイクを握る倉林さん。真っ白い吐息。福島を語る時、自然と熱を帯びます。
この人なしにこの村はねえ
政治信条は、「いつも誠実、熱い心」。その原点は、福島県西会津町で、日本共産党の農業委員、町議を務めた父・三瓶猛(さんぺい・たけし)さん(故人)にありました。
「この人なしにこの村はねぇ」「惜しい人を亡くした」。2009年8月、猛さん(享年74)の葬儀。参列者は口々に語り合い、故人を悼みました。「ずっと、つまはずち(つまはじき)だった。父ちゃんが信頼をもらうには、30年はかかったべ」。母・末子さん(75)は振り返ります。
アカの家――倉林さんが子どものころ、実家はそう呼ばれました。農家ばかりの土地柄にあって、猛さんは町で初めて公然と日本共産党員を名乗りました。同じ集落の住民は遠巻きにし、親戚の冠婚葬祭にも呼ばれません。「あっこ(明子)と遊ぶと怒られる」。友達も避けました。幼心に、周囲に煙たがられながらも私心なく活動する父の姿が不思議でした。
県の西北部、山あいの町。新潟県に接し、冬は1メートル超の雪に閉ざされます。どの家も冬場、男手の出稼ぎで食いつないでいました。猛さん自身、春~秋は農作業、冬は土地改良、インフラ整備の工事現場で働き一家を支えました。「猛さんは、『この地域から貧困をなくしたい』と入党なさった。真面目で誠実、文句ひとつ言わず地道に行動する人だった」。ともに活動した前町議の清野興一さん(71)は語ります。
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農家の暮らし守るため尽力
1959年、猛さんに入党を勧めた従兄弟の井上寅彦さん(故人)が町議会で初議席を獲得。同年、猛さんは日本共産党公認で農業委員に初当選し、以降、95年まで9期・36年間、農家の暮らしを守る取り組みに尽力しました。
70年代、農家の生活を保障する農業者年金制度が始まりますが、耕作地3反(約3000平方メートル)以上が加入要件。当時大半が小農家のなか、1人ひとりの農地を丹念に調査して受給資格を証明したり、生産法人を立ち上げて加入要件を満たせるようにしました。
井上さんとともに町の党組織の文字通り、礎を築いた猛さん。75年から一昨年まで9期町議を務めた清野さんは言います。「苦労人だからこそ、町民に苦労させたくない一心で活動していた。その思いが伝わったからこそ、共産党の支持も広がった。あっこもきっとその血を受け継いでいんべ」。
1960年、4人きょうだいの2番目に生まれました。兄と妹、弟は生まれながらに弱視で、物心つくころから畑仕事に追われる母の代わりに家事を任されました。
父親ゆずりの思いやりの心
きょうだいたちがいずれ全盲になると分かったのは小学6年生の時。すぐさま母に宣言しました。「医者になりてぇ。おらが治してやるんだ」。
しかし、医大に進む学費はありません。中学生で家の経済状況を理解し、「看護師ならお金がなくてもなれる」と決めました。
埼玉県内の病院に勤務する兄・忠克さん(54)は、当時を思い返して語ります。「いつも気付かないところで助けてもらっていたと思います。家が大変なのだから、自分のできることは何でもやろうと。そういう思いやりは父親譲りです」。(「週刊しんぶん京都民報」2013年2月17日付掲載)