流通科学大学教授 上瀧真生

 マスコミはアベノミクスによる円安・株高をはやし立て、また、安倍首相の「賃上げ要請」によって賃上げが実現するという期待を広めている。実際、「業績回復」を背景に、大企業の一部が一定の「賃上げ」実施を表明してもいる。しかし、その背後で、雇用・労働条件を破壊する新たな攻撃が着々と準備されている。今年の京都学習協「春の情勢セミナー」での日本経団連『経営労働政策委員会報告』の検討と内閣の諮問機関・規制改革会議の動向をふまえて、アベノミクスが何をもたらすかを考えたい。
 まず、「賃上げ要請」問題である。首相は2月12日、日本経団連など経済団体3団体のトップに対して「賃上げ」を「要請」した。金融緩和による2%インフレが実現すれば、賃上げなしでは実質的な賃金低下だという批判に応えたものであり、また、賃上げなしには日本経済の回復はありえないという、働く者の運動が求めてきた真理を実質的に認めたものである。と同時に、夏の参院選に向けたパフォーマンスでもあった。問題は「賃上げ要請」の中身にある。
 1997年以来の賃金引き下げを主導したのは、「総額人件費管理」を基本とする経団連の賃金政策である。それは、現金給与だけでなく、社会保険料企業負担分、退職金などの企業内福利費、さらに教育費用等を含めた人件費全体を「企業の経営状況ならびに今後の経営計画の観点から実際に支払うことが可能な賃金原資」の範囲内に抑え込むものである。その際、月々支払われる給与を1とすると総額人件費は1.7になるとし、月々の給与引き上げは極力避けるべきとされた。したがって、賃上げの有無は各企業の業績にもとづき、賃上げする場合も月々の給与ではなく、一時金や賞与を引き上げることとなる。
 今回、安倍首相は「業績が改善している企業には、報酬引き上げを行うなどの取り組みを是非検討して頂きたい」と要請し、会談後、米倉経団連会長は「業績が良くなれば一時金や賞与に反映される」と述べたとされる。つまり、首相の「賃上げ要請」も、経団連会長の「回答」も、この間の経団連の賃金政策の範囲内であって、本格的な賃上げへの転換を意味するものではまったくない。一部大企業の正社員のボーナスが上がっても、それが非正社員や中小企業労働者の賃上げに結びつくわけではない。本格的な賃上げへの転換のためには、働く者の運動の一層の発展が求められている。
 他方、アベノミクスの一環である「成長戦略」では「規制緩和」が重要な柱となる。これを受けもつ規制改革会議では、4つのワーキング・グループの1つとして「雇用ワーキング・グループ」が立ち上げられ、雇用・労働条件に関わる規制見直しを進めている。その検討項目は、労働時間規制の見直し、勤務地・職務限定の労働者の雇用ルールの整備、労働条件変更規制の緩和、労働者派遣規制の緩和、職業紹介事業の見直し、高卒新卒者採用の仕組みの見直し、解雇規制の見直し等である。これらの項目は、企業が労働者を必要なときに必要なだけ、必要な雇用形態で働かせ、必要のないときは簡単に解雇でき、契約を打ち切るために、経団連が求めてきた項目と一致する。
 『経営労働政策委員会報告』は、民主党政権下での労働規制を「企業活動を制約し、経営環境悪化に拍車をかける規制強化策ばかり」と総括し、「労働者保護の政策を講じるだけでなく、『雇用の源泉である企業の事業活動の柔軟性の確保』や『多様な就業機会の創出』の観点を重視し、バランスのとれた政策」に転換するよう求めた。規制改革会議はこの要求に応えるべく準備している。
 ただし、6月に予定される安倍政権の「成長戦略」策定に向けては、これらの項目のうち、勤務地や職務が限定された労働者(企業側は期限つき雇用から期限の定めのない雇用への転換をこのような形でおこなおうとしている)を従来の正社員より解雇しやすくすること、有料職業紹介事業における求職者からの手数料徴収の要件を緩和すること等が優先事項となっている。これら自体、企業のもうけ追求の自由を広げ、労働者の雇用・労働条件を脅かすものである。しかし、より大きな争点となる課題は慎重に先送りされている。労働時間規制の緩和(かつて残業代をなくす制度として悪名をはせた、事務系や研究部門の労働者の労働時間管理をしない仕組み等)、労働者派遣の規制緩和、労働条件の不利益変更を容易にすること、解雇しやすいルールづくり、等だ。ここからは、参院選を乗り切るまでは大きな波風を立てず、参院選で安倍政権の基盤が整った後、雇用・労働条件破壊の「規制緩和」に本格的に進もうとする意図が見てとれる。
 『経営労働政策委員会報告』は、競争力強化のために、円高の是正、経済連携の推進、法人の税負担の軽減、一層の社会保障制度改革、エネルギー・環境政策の転換、労働規制の見直しを「一気呵か成せいに」実施することを要求した。しかし、労働規制に関するかぎり、その政治的な条件はまだ整っていない。参院選で安倍政権が基盤を固めてしまえば、雇用・労働条件破壊が「一気呵成に」推し進められるだろう。
 今こそ、働く者の要求にもとづく運動の発展が必要である。それなしに本格的な賃上げは実現できないし、雇用・労働条件の破壊をくい止めることもできない。(「週刊しんぶん京都民報」2013年3月31日付掲載)