高倉健と映画監督・内田吐夢─経済学者・櫻田忠衛
3時代を生きて
高倉健を評するとき、撮影現場では立ったままで出番を待ち、決して座らない、酷寒のロケ地でも火にあたらない、どんなに若い人にも礼儀正しく挨拶することなど、映画で演じられた役柄の律儀で礼儀正しくストイックな性格がそのまま伝説的に語られる。それはそれで高倉健の一面をとらえているのかも知れないが、ここでは彼自身が語ったことを素材に違う視点から高倉健を評してみたい。
高倉健が出演した映画を時代で区分すると3つの時代に区分することができる。第1はデビューした1956年から1963年まで。プログラムピクチャー(=B級娯楽作品)への出演が主で、『大学の石松』シリーズや源氏鶏太のサラリーマン小説を原案にした『天下の快男児』シリーズ、『べらんめえ芸者』シリーズの美空ひばりの相手役などである。
第2は1964年から始まるヤクザ映画の時代で、これは1976年東映を退社するまで続く。この間、78本のヤクザ映画に出演して、スターとして揺るぎない地位を確保するが、1976年「このまま東映にいたらヤクザ役しかできなくなる」との危機感を抱いて東映を退社する。
第3は東映を退社した後、独立して出演映画を自らが決められることになって森谷司郎、山田洋次、降旗康男監督らの作品に出演する。年に10本近く撮っていたのを数年に1本にまで減らし、数々の賞に輝いて国民的な大スター(名優)になる。
「マルクスを読め」
3つの時期があるが、高倉健が第3の時期に名優と評されるまでになったのは第1の時期に、内田
これらで共演した三國連太郎は、『森と湖のまつり』では「(監督は)残酷ないじめ方だった」と述べ、「『飢餓海峡』のときもすごかった」「『武蔵』の小次郎のときもやられていました」と、そのすさまじさを明かしている。同時に「健さんの開眼は、やっぱり吐夢さんをクッションにしているんじゃないかと思います」とその影響に言及している。
高倉自身も「しぼられた」「怒鳴られました」と告白しながらも、撮影を離れたときには「とても優しく、いろいろな話をしてくれました。『ゴッホにマルクス、それに中国に関するあらゆる本を読みなさい。中国人は偉大だよ』と言われたのをよく覚えています」と語っている。高倉健を評するとき、彼の影響を見落とすことはできない。
高倉健に影響を与えた内田吐夢は、明治31年岡山に生まれ、大正9年大正活映株式会社に俳優兼助監督として入社する。1930年代には、『裸の町』(1937年)、『土』(1939年)など、いわゆる「傾向映画」を発表し、大戦末期には陸軍省情報局の要請で『陸軍の華』(脚本新藤兼人)を計画するが、戦局のひっ迫で中止になり1945年、満州におもむき満映参与となる。日本の敗戦により満映は解散するが、彼は中国に残り共産主義中国の建設に参加して毛沢東思想を学び、1953年10月、体を壊して帰国する。帰国後、『血槍富士』(1955年)、『大菩薩峠・第1~3部』(1957~1959年)など数々の名作を残して、1970年72歳で没する。
心に刻んだ言葉
高倉健が内田吐夢の影響をどのように受けたのか、マルクスを実際に読んだのか、中国について勉強をしたのか。これらについて彼自身はなにも語ってはいない。
しかし、内田から言われた言葉をはっきりと覚えていて、それを書き留め、「内田吐夢17回忌追悼記念」誌へ寄稿したのは、彼の真面目さや律儀さを考えると、ただ単に思い出として記したのではなく、それについて読み、考え、勉強した結果だったのではないか。晩年、チャン・イーモウ監督の『単騎、千里を走る。』に出演したのはひとつの表れかも知れない。
高倉健は、礼儀正しく律儀で、寡黙で不器用な男としてのエピソードで語られてきたが、これからは彼自身の映画、語ったこと、書いたこと、考えていたことなどから多面的に深く論じられなければならない。(「週刊しんぶん京都民報」2015年1月18日付掲載)