日本政府の「棄民政策」許せない シベリア抑留された進士さん
山科民商は3日、戦後70周年を迎え、安倍首相によって戦争が美化され戦争する国に変えられようとしている今、戦争体験を学ぼうと山科民商会館で学習会を開催し、同民商会長の義父・進士銀三さんを迎え、4年間のシベリア抑留体験談を聞きました。
進士さんは1925年(大正14)生まれの89歳。奈良県で語り部の活動をしていますが、これが最後の話になるとして70年前の体験を語りました。満州国錦州で南満州鉄道の傍系会社に勤務していた昭和19年5月に繰り上げ入隊し、「満州徳第6766部隊」に入営。満州金蒼屯で、200人の新兵が3カ月の訓練後、第1次試験で幹部候補生(軍曹)になり、満州からソ連国境近くで寒さと飢えの中、人を殺す訓練を受けた体験を語りました。
金蒼屯には日本料理店に将校用、朝鮮料理店に兵隊用の慰安所があり、1000人の部隊で休暇日に50人が利用していた事実も紹介。昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻で半数は退却。8月14日に投降のビラがまかれ、敗戦を知りました。
その後、政府の棄民政策で満鮮に土着するか、国籍を離れても良いと聞き愕然としたと言います。富永中将らと乗った汽車はソ連に入り、バイカル湖をさらに西へシベリア鉄道とバル鉄道の分岐点のタイセットで降ろされ、鉄道400キロを建設する4年間の収容所生活が始まりました。森林を伐採して用地を作ることは素人には極めて危険な上、マイナス30度を下回る寒さで亡くなる兵隊も続出。厳しい抑留生活から復員できたのは、4年後の昭和23年7月でした。
進士さんは「後から知ったことだが、ソ連と日本の敗戦処理の担当者の会議で、日本軍の責任者が、ソ連軍代表の言い分を鵜呑みにし、それも自分たちの責任を逃れるために、兵隊たちを使役させたシベリア強制抑留の措置は許すことが出来ない」と厳しく指摘しました。
学習会には日本共産党の本庄孝夫元府議、北山京都市議も参加しました。(野原孝喜)