大本事件 “弾圧”の歴史繰り返すな 「国体」否定理由に教祖ら逮捕、神殿を破壊 STOP共謀罪
当時の絶対主義的天皇制のもと、治安維持法は、「国体を否定し、または神宮もしくは皇室の尊厳を冒とく」を処罰対象にしており、宗教についても、政府と違う考えを持つことを許さない規定となっていました。
神道系の新興宗教「大本」は出口なおを開祖とし、教団の基礎を築いた出口王仁三郎(おにさぶろう)とともに二大教祖としています。大本への弾圧の始まりは、1921年の第一次大本事件でした。幹部らが不敬罪や新聞紙法違反容疑で逮捕され、本部施設の一部が破壊されました。
■「邪教」「国賊」と盛んに吹聴
1935年の第二次大本事件は第一次よりも苛烈でした。亀岡、綾部を含め全国で約3000人が検挙され、王仁三郎以下幹部ものきなみ逮捕。本部の全施設がダイナマイトで破壊されました。拷問などで16人が獄死しました。
第二次事件で政府は、大本の教義は国の根本原理を否定し、王仁三郎が天皇に代わってその地位を占めようとしているとして、不敬罪と「国体の変革を目的としている」とする治安維持法違反を理由に弾圧しました。
第二次事件の5年後に生まれた出口雅子さん(77)は、王仁三郎の孫娘で父、新衛さんも逮捕されました。母、住の江さんは、亀岡の民家に軟禁状態に置かれました。「買い物も警察が行い、監視されていた。父がどこに収用されたかも教えられなかった」と語ります。
当時は新聞も「邪教」「国賊」と書き立てました。親戚は学校で、「逆賊の子」といじめられたといいます。権力は国体の変革を目指す「邪教」のイメージを広めるために手を尽くしました。雅子さんは、「竹やりを何千本も隠しているという嘘や王仁三郎をおとしめるような報道も行われました。現在、加計学園問題でも元官僚の『スキャンダル』が報道されるなど権力のやり方は昔から似ていますね」と憤ります。
「結局、国は『危険』と判断したものを徹底的に弾圧し、思想信条の自由が侵されました。内心の自由を侵すと指摘される共謀罪法案が強行されようとし、首相が9条改憲を明言する今、あの時代にどんどん逆戻りしているように感じます。共謀罪の廃案はもちろん、世界の宝9条を守り平和な日本であってほしい」
■恐ろしい事件から学ぶべき
第二次事件の年に生まれ、亀岡の教団本部から約1㌔離れた所に自宅があった、石田康男さん(82)は、兄や両親から、「ボンボンというものすごい爆発音が聞こえた」と聞かされました。「今になって思うと、時の権力にとって都合が悪いものに理由をつけて弾圧できる恐ろしい時代だった。まさに、共謀罪はその突破口を開くのではいか。危険な流れを許さないために過去の出来事を知ることが重要ではないか」と語ります。
亀岡市の大本本部には当時の弾圧を記録するため、破壊された首のない観音像や碑文が削りとられた歌碑などが残され、かつての“記憶”を今に伝えています。
(写真上=亀岡市の大本本部に残されている、第二次大本事件で破壊された首のない観音像、写真下=獄中からの父の手紙を手にする雅子さん)
(「週刊京都民報」6月11日付より)