文化・芸術は経済成長の道具か
文化芸術固有の価値謳う基本法
文化政策という言葉が頻繁(ひんぱん)に使用されるようになった。たとえば経済や社会保障、教育と同じように。〈政策〉とは政治方針である。だとすれば今日、国は文化・芸術に何かしらの意味を見いだすようになった、ということになる。為政者たちは、どのような意味を見いだしているのだろうか。
2017年6月23日に施行された文化芸術基本法はその前文に、文化芸術の創造や享受、そして「文化的な環境の中で生きる喜びを見出すこと」は、人々の変わらない願いだと謳(うた)う。さらに、「文化芸術は、多様性を受け入れる」「心豊かな社会を形成する」とも書いている。この前文が私は好きである。続く言葉も良い。「文化芸術は、それ自体が固有の意義と価値を有する」。本当は「…とともに…」と続くのだが、文化芸術はそれだけで価値がある、という見方に私は共感する。
経済活動の貢献が尺度の府条例
同法は旧文化芸術振興基本法を超党派の議員が改正したもので、閣法ではない。したがってその前文から為政者の意図を読み取ることはできない。
だが、基本法に基づいて地方自治体が何をやるかという話になると、様相は変わってくる。私は、京都府が2018年7月31日に施行した「京都府文化力による未来づくり条例」や、条例に基づき検討されている基本計画案にあまり賛成できない。経済活動への貢献に文化芸術の価値を見いだす哲学を感じるからだ。
たとえば同年11月、「京都府文化力による未来づくり審議会」に提出された「基本計画の骨子について」の重点施策は、文化を基軸とした経済の好循環を生み出す、文化によるイノベーション等、文化を使った経済発展に主眼が置かれている。
根拠法がどうであれ、国の予算措置に為政者の意図が貫かれ、全体的な国政策へ組み込まれ、崇高な基本法の前文とかけ離れた施策が発想されてしまうのである。
今日、自治体は総務省の指示で公共施設等管理方針を策定し、あらゆる公共施設を見直し、更新・統廃合・長寿命化等を計画的に行うよう求められる。根底には国の自治体政策がある。自治体に稼ぐ力を求め、国の経済成長に資する存在へ転換させる。障壁となる歳出見直しの柱に、公共施設の見直しが位置付けられているのである。
京都こども文化会館の廃止方針や京都府立文化芸術会館の移転方針もそうした政策の流れを受けたものと考える。自治体が公共施設の存在意義を測る物差しは変質した。
こども文化会館の設立趣旨は「青少年の健全な育成を図るため、すぐれた文化芸術に接することのできる機会を多くするとともに、青少年自らが文化芸術を創造し発表できる場を提供する」というものだが、それでは施設存続の理由にはならないらしい。子どもたちへの文化・芸術の保障は稼ぎにつながらないからだろう。当初から、こども文化会館は廃止で文芸会館は移転と、両者の行く末は分かれていた。文芸会館は北山文化環境ゾーンに配置することで新たな富の創出に資する価値が見いだされたということになる。
国は文化・芸術を経済成長の道具として捉え、それにのみ価値を見いだしている。自治体もその哲学の共有を強いられる。私はこれこそが文化的思考の欠如だと思う。
社会知り、成長培った演劇
今、自治体に求めるのは経済成長至上主義に代わる哲学である。私はそれを、私自身が考える芸術・文化の持つ固有の価値に立脚して訴えたいと思う。
私は年少の頃から途切れることなく、演劇に携わっている。創造し、表現することは楽しい。だが年齢を重ねているうち、少し違うことも考えるようになった。私たちの劇団は子どもから大人までが集う異年齢集団である。日常は学校や勤務先に通いながら演劇を創る。互いの暮らしを知り、そこに足場を置き、表現する。私は演劇創造を通じ、戦争や飢餓、貧困や差別を知った。劇団の仲間たちをめぐって、いじめや体罰を、家庭内の不安や、町内のトラブルを世界の問題につなげて捉えることを知った。私たちは舞台に立ち、観客と共に考え続ける。幕が下りた時、私たちは何かを得ている。そしてまた生活を続けるのだ。
私にとって芸術・文化の固有の価値とはそうしたものである。だからこそ経済成長に結びつけられる文化政策は不快であり、憤りを覚える。