原爆展の企画「ヒバクシャと出会うカフェ」で(左2人目から)熊谷、奥田氏らから直接話を聞く参加者(京都市中京区・御池地下街)

 被爆の実相を知ってもらい、核兵器のない世界をめざそうと「ヒバクシャと話すkyoto原爆展」が5月17日から19日まで、京都市中京区の御池地下街で開かれ、3日間で800人を超える来場がありました。 

 京都原水爆被災者懇談会が主催し、ヒバクシャ国際署名を大きく広げる京都の会(京都生協や民医連、母連、新婦人、労組など33団体)が協賛した初の試みで、広島、長崎の原爆写真や基町高校(広島)の生徒が被爆者から聞いて描いた「原爆の絵」の展示、アニメや被爆映像の上映のほか、「ヒバクシャと出会うカフェ」で被爆者から体験談を聞きました。

 開催中に2回企画した、「ヒバクシャと出会うカフェ」は、世話人代表の花垣ルミさん(79)や奥田継義さん(74)ら被爆者を囲み、10数人で膝を突き合わせたお話会。18日は、被爆者4人が当時の様子やその後の人生について語り、同原爆展のコーナー企画にも参加した生協学生委員会の大学生らの質問に答えました。

 公の場で初めて被爆体験を語った熊谷好枝さん(82)は、当時8歳。広島の爆心地から北へ約7㌔離れた小学校の校舎で強烈な光を受け、翌日から両親らと一緒に近くの河原で、被爆者の救援活動を手伝い、「パックリ割れた背中にささったガラスをピンセットで取って薬を塗った」と記憶をたどりました。死体は山積みにして焼却され、「絵で見るように、きれいに並べられて焼かれた人ばかりではない」と証言。被爆者健康手帳の取得についての苦労も紹介しました。

 初めて被爆者から直接、話を聞いたという京都大学の男子学生は、原爆の光がきれいだったとか、死体が焼ける臭いの記憶に、「子どもの頃の飾らないリアルな話で、より悲惨さを感じた」と述べ、核兵器のない世界をつくるために、「署名でなくせるのか、なくすために何ができるのか考えたい」と語っていました。

 被爆者健康手帳とその取得のための裁判があったことを知り、「被爆し、手帳をもらう苦労までさせていることをひどいと思った」と話すのは、森脇大介さん=2回生=。府立大学の学生でつくる「生協学生委員会おれんじ 平和班」のメンバーで、「被爆の実相を次に伝えていくのは、ぼくらしかいない」との思いを強くしていました。

 会場には、折り鶴やヒバクシャ国際署名コーナーが設けられ、通りかかった市民や外国人観光客らが署名する姿がありました。