中山博喜さん

 2001年からペシャワール会の現地ワーカーとして故・中村哲さんとともに5年間働いた写真家・中山博喜さん(京都芸術大学教授)が現地の人々を撮影した作品による写真展「水を招く」(主催・ピースウォーク京都)が堺町画廊(京都市中京区)で開催中です(5月15日まで)。中山さんに、写真展や中村哲さんの思い出などについて聞きました。 

 ―写真展で見てほしい点は

 写真展は、ピースウォーク京都がペシャワール会支援室室長の看護師・藤田千代子さんの講演(8日)を企画し、講演と併せて行われることになりました。

 私としては、ややもすると神格化されがちの中村哲さんですが、行動は素朴な思いから始められ、魅了された多くの人々がいたという人間ドラマを見てほしいと思って写真展をさせてもらいました。

 もともと、ペシャワール会は、福岡県の社会人登山団体「福岡登高会」の同行医師として、アフガニスタンとパキスタンにまたがるヒンズークッシュ山脈の登山に同行し、現地の貧困な医療の現状に胸を痛めた中村医師が、日本キリスト教海外医療協力会の依頼でパキスタンに住み込みで勤務することになり、医療活動を支援する目的で1983年、アフガニスタンとの国境ぞいの町ペシャワールで結成されました。医療が受けられない人々のために病院やクリニックをつくり、医師を育て、医療部隊を送る活動を行うことにしました。

 ところが2000年頃、赤痢などの患者が爆発的に増えました。水が汚染されていることが原因でした。根本原因をたださなければ問題は解決しないと、医療活動の一環としてきれいな水を提供しようとはじめられたのが井戸の掘削と水路の建設でした。道端でものを落とした人がいたら拾って手渡す、困っている人を見たら手を差し伸べる。そんな素朴な思いから始められ、続けられた事業でした。

 水路は、砂漠の地にヒンズークッシュ山脈の雪止め水によるクナール川の水を流し、緑地化しようという計画でした。起工式を行った際、私には、説明を聞いて理屈ではわかるものの、この砂漠に本当に水が流れるのかと、想像できませんでした。水が通ったときの現地の人々の歓迎ぶりはすごかったです。今では、緑がもどり、人々も戻り、ホテルなども建設され、別荘地のようになっていると伺っています。

 写真展では、石を切り出し、溝を掘り、石の蛇篭で岸をつくる、用水路が完成し、オアシスになっていく―事業を導く中村哲さん、彼の言葉を信じて行動する技術者や現地の人々、水が通り、そこに人々が戻ってくるドラマの一端を見てもらえればと思います。

  ―現地ワーカーをすることになったきっかけや活動内容は

 中村先生は日本人が来て一緒に汗をかくことで、井戸掘削や水路建設をする現地の人々のモチベーションが上がるということで、日本人スタッフを求めていました。

 京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)でデザインを学び、「30歳まではいろいろと経験しよう」と考えていた私は、大学を卒業する直前、現地で活動していた知人から声をかけられ「とりあえず1年間働きます」という約束で2001年4月から参加することにしました。アフガニスタンがどこにあるかも、井戸ってどう掘るのかもまったく知りませんでした。

 最初、現地の生活に慣れるべく、パキスタン・ペシャワールの病院に着任し、7月にはアフガニスタンのロダットで井戸掘りを始めました。会計の総責任者がお辞めになるということでペシャワールに戻り、9月から会計の仕事に就きました。

 そのあと9・11(アメリカ同時多発テロ事件)とアフガニスタンへの報復攻撃が起こり、結局5年間働くことになりました。

 ―中村先生はどんな人でしたか

 きわめてピュアな方でした。両親は労働運動をされていた方(作家・火野葦平は親戚)で、そのもとで育ったことが先生の行動に出ていたところはありえると思います。人のために働くし、親分肌で人を集めてみんなでやりあげていくところに関しては、ご家族の血、子ども時代の経験があるではないでしょうか。

 現地の人々、日本人ワーカーの境なく、一人ひとりとコミュニケーションをとり、信頼を築いていかれました。人が人を呼び、あれだけの水路をつくる仲間を集めたところが、中村哲さんの本当の凄さなのだと思います。

 1年ほどで掘った井戸が100本を超えました。国連などでもなかなか達成できない驚異的なスピードでしたが、先生は夕食のときに、アフガニスタンの地図に画びょうをさされ、「私たちがやってきたのはまだこの穴ぐらいのものです。自分たちの出来ることから地道にやっていきましょう」と謙虚に語られました。

 おだやかな先生ですが、一度だけ大声で怒られた姿を見ました。

 9・11に続くアフガニスタンへの報復攻撃で、国連の支援がすべて止まってしまいました。もともとアフガニスタンは旧ソ連の侵攻を受け、干ばつなどの自然災害もあり、人々は生きていくことすら厳しい状況に置かれていました。ペシャワール会の医療活動や井戸掘削などの活動は、国連の食料支援によって、人々が食べることが出来ることを前提にしたものでした。その前提が覆された。ありえないことでした。

 中村先生は、「国連が食糧支援をしないのなら、自分たちがやるしかない。今から日本に帰ってなんとかお金を集めるから、その間にペシャワール中の小麦と油を買って、人々に送れ」と指示しました。

 当然、小麦や油の価格は急騰します。我々は少しでも安く多く手に入れられないかと、乱高下する価格に、購入をためらっていました。それを見た中村先生は「さっさと買わんか。この瞬間にどれだけの人が死んでいるのか分からんか」と血相を変え、一喝しました。人が豊かに生きるということは、今、この場所では何をすべきか、そのための方法はどうあるべきかを一貫して考えてこられた先生の姿が、そこにありました。

 世界で紛争は残念ながらなくなりませんが、中村哲さんが、武力によって問題は解決しない、国がどうだ、政権がどうだという前に、そこで暮らす人々が、日々食事が出来、平和で豊かに生活出来る世界を目指して行動されていた姿勢は、大切なことだと思います。

 写真展は15日(日)まで、堺町画廊(中京区堺町御池下ル東側)℡075・213・3636。正午~午後7時。