市民の結束が紡いだ100年の歴史 中村一成さん著『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』
ジャーナリストの中村一成(なかむら・いるそん)さん(52)はこのほど、戦前、飛行場建設のために集められた朝鮮半島出身の人々によって形成された集落、宇治市伊勢田ウトロ地区の住民の記録『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』(三一書房)を出版しました。
4月にオープンした、ウトロ平和祈念館(以下「祈念館」)の建設を進めるウトロ民間基金財団から2018年に依頼され、執筆したもの。出版化と祈念館の展示制作は、情報を共有しながら、並行して進められました。
戦前の飛行場建設に伴う集落の形成から、戦後の混乱、進駐軍との交流と対立、民族教育の取り組み、水道敷設や強制撤去反対の運動、土地問題の解決、地域との共生を目指した街づくり、昨年の放火事件、祈念館建設までが、国内外の情勢とともに、ウトロ地区に住む在日1世や2世、支援してきた在日コリアン、日本人の聞き取りをもとに綴られています。戦前から100年に及ぶ住民とウトロの歴史を本格的な書籍にまとめたのは今回が初めて。
なかでも、強制立ち退き訴訟が2000年、最高裁で住民側敗訴となって以後、諦めず、在日コリアン、日本人も加わる支援団体を結成し、韓国の市民や芸能人、韓国政府も支援に乗り出し、土地問題解決に結実するドラマは感動的です。
取材後、食事や酒がふるまわれるほど、信頼を築いたからこそ、聞き取れた体験。土地を守るために尽力し、鬼籍に入った在日1世や高齢の2世が自宅で生い立ちを語る姿が、文面から生きいきとよみがえります。
◇
一成さんが、ウトロの住民を取材することになったのは、「自らの生い立ちが関係している」と言います。
大阪府寝屋川市生まれ。実家は建設業を営んでいました。父は日本人、母は在日2世と2つのルーツを持ちます。母はコリアンのルーツをひた隠しにしました。うすうす出自に気づき「自分は何者なのか」考えるようになったといいます。
大学を卒業後、毎日新聞記者に。ウトロを取材し始めたのは、京都支局に配転となった2000年から。1世が暮らしてきた住居が残り、1世が渡ってきた戦前の原風景を彷彿とさせ、体裁を気にせずあけっぴろげなウトロの人々の気質が、実家の建設会社で働き、少年時代に親しくしてもらった様々な生い立ちの労働者の姿と重なり、親しみを覚えました。
土地立ち退き訴訟が、最高裁で住民側の敗訴となり、展望が見えないように思われた時期。不安に駆られた住民は見知らぬ来訪者に厳しいまなざしを向けていました。一成さんは集会や町内会行事に参加し、顔を知ってもらえるよう努めました。
しかしその後、大阪本社に配転となり、一市民として集会などには参加するものの、記者としての取材が困難に。「聞いたことを形にして残さないとその歴史がなかったことになってしまう」との焦りが生じてきました。
2009年12月、京都朝鮮第一初級学校で「在特会」メンバーによる襲撃事件が発生。知人たちが苦悩し、たたかっているのに、取材できないもどかしさを感じ、「いま、やるべきことに専念したい」と新聞社退職を決意。同事件については14年、『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件─〈ヘイトクライム〉に抗して』(岩波書店)にまとめました。
戦後の複雑な国内外の情勢の中で、入り乱れる運動を紐解くのは骨の折れる作業でした。これまで、書きためてきたものも膨大な量で、どうまとめるか途方にくれたと言います。
出版へと結実する原動力となったのは、「こんな理不尽や不条理を認めるわけにはいかない」との思いでした。本が完成し、「1世、2世との約束が果たせた」と胸をなでおろします。
ウトロ守るため小さな「統一」が
土地が守られ、民族、国境を越えた交流拠点となる祈念館建設までこぎつけた運動の意義について強調します。
「歴史的にウトロ地区は、朝鮮総連の地元支部が支えてきた地域。在日や日本人、民主化を経た韓国の市民社会、韓国政府のそれぞれが、『日本の植民地化の犠牲になり辛酸をなめてきた人々を土地から追い出し、路頭に迷わせるわけにはいかない』と、心一つになって踏みとどまり、小さな『統一』が実現できたからこそ。小さな地での経験だが、市民の結束で東アジアの平和は実現できるという展望を示した歴史的意義は大きい」
四六判、349㌻。2800円+税。写真はおもに中山和弘氏。