ゆかりの地で大ネタ「らくだ」上演 京都出身の落語家六代目桂文吾「感謝と名跡への思い込め」/4月6日、京都市西京区・西念寺
上方の落語家・四代目桂文吾が完成させた大ネタ「らくだ」(「らくだの葬礼(そうれん)」)を、六代目が四代目ゆかりの西念寺(京都市西京区)で上演する落語会が4月6日に行われます。
四代目文吾は幕末の1865年に生まれ、京都で活躍。晩年は自ら完成させた「らくだ」が売り物で、三代目柳家小さんに東京に招かれ、同作を口伝したとされます。
壊疽(えそ)のため足を切断し、当時、寄席に近かった京都市中京区六角裏寺町下ルの西念寺境内に最期まで住んでいました(同寺は1990年、西京区に移転)。
五代目は、戦前は東京で、戦後は上方に戻って活動。同寺で1963年頃まで「文吾の会」を続けました。
六代目は、京都市出身。中学3年で五代目文吾に入門し、六代目小文吾と名乗り少年落語家として活躍。「文吾の会」に若き日の桂米朝らと出演していたほか、宝塚第二劇場で行われていた宝塚若手落語会に米朝、笑福亭松之助、のちの五代目桂文枝、露の五郎兵衛らと出演しました。
「地獄八景亡者戯」も上演していましたが、五代目に習った際は東京の言葉だったため、米朝の協力で上方言葉に変えてもらったといいます。
上方落語の人気が衰えるなか、宝塚落語会は廃止となり、米朝らは落語を続けました。六代目小文吾は、経営陣から誘われ、宝塚新劇座の俳優に転身。テレビ、映画にも出演しましたが、芸能活動に行き詰まりを感じて64年、芸能界から引退。地方巡業で世話になった鳥取県米子市の温泉施設に招かれ就職しました。
落語への思いは断ちがたく、定年退職後の2001年、米朝の許可と励ましを受けて、山陰の落語家として再出発しました。18年には、西念寺で四代目文吾100回忌の法要と落語会が行われた際、招かれ出演しました。
米朝から贈られた「らくだ」の録音テープに学び奮起。手ごたえを感じるようになったため、22年に六代目文吾を襲名しました。昨年、念願だった「らくだ」の上演を米子市で果たし、ゆかりの地でも上演したいと、西念寺で公演することになったもの。
「一度は、落語家の道をあきらめましたが、様々な人々の励ましがあって六代目を襲名させてもらえた。感謝の思いと文吾の名が続いてほしいとの願いを込め、ゆかりの場所で上演したい」と語ります。
落語愛好家で今公演にスタッフとして活動する地元在住の阪本覚さん(64)は「西念寺が『らくだ』ゆかりの地であることを多くの人に知ってもらいたい」と意気込みます。
同寺の高津海尊住職(78)は、「子どもの頃、自坊で開かれていた『文吾の会』で若き日の六代目にも会っていた。不思議な縁を感じます。人の縁や上方落語の歴史などに思いをはせ、六代目文吾師匠の歴史的な『らくだ』の公演を聞いてもらえれば」と語ります。
午後1時半(午後1時開場)、西念寺本堂(西京区御陵大枝山町6―1)☏075・333・1991。月亭柳正も出演。2000円。椅子席80席。✉no10no.kumagoro@gmail.com