7月15日(火)~7月20日(日)12時~19時(最終日18時まで)、ギャラリー知(京都市中京区丸太町通寺町東入ル下御霊前町633青山ビル1F。京阪鴨東線「神宮丸太町」より徒歩5分)TEL075・585・4160。
初個展に付す言葉は難しい。行雲行水。作家の創作もまた水のようにかたちを変えていく始点で書き連ねる言葉など、川のごとく流れてしまうだろう。だが、流れる言葉も「古池や蛙飛びこむ水の音」がつくる波紋ぐらいにはなるかもしれない。
須永順子の初個展「THE GRINNING POND」が古池かどうかはわからない。しかし、「淀んだ池、何色にも見えない色」と書かれているように、かなりの古池かもしれない。もっとも物理的には池の水位は比較的浅いが、濁って淀んだ池が喚起させるイメージは、深さではないだろうか。池の水面は、鏡面のように周囲の世界が写り込むのに対し、水面下を見通せない水の不透明さ、不確かさは、さまざまな想像(創造)や深層心理を刺激する泉でもある。だからだろうか、池は薄い平面である絵画の題材としてよく描かれてきた。
須永もまた、池を主題に絵画を描いてきた1人である。須永の絵画を初めて見たのは、2014年の「京都造形芸術大学卒業・修了展」であった。卒業制作となる《生きた記憶》(2014)は、荒削りながらも、鮮やかな緑の色彩に孕まれた光が印象的な4枚組の大作であった。さながら水面の波紋のような抽象的なうねりとリズムは、穏やかで柔らかい絵画空間を形成していた。
池の水面に抽象的形象を最初に付与したのは、クロード・モネ(1840-1926)であろう。1883年にジヴェルニーに移り住み、1895年から自宅に作った庭園の池に咲く睡蓮を描き始めた睡蓮連作はよく知られていよう。モネの絵画は、晩年になるつれ水の流れのように、池の情景を描いたものから、池の水面に写りこむ空や樹、大気までが混沌と合わさる抽象的な画面へと変化していく。池の水位を変えるように、モネは水面に主観的、心理的なヴィジョンの層を見ていたのかもしれない。
では、須永の絵画はどうだろうか。私には、徳岡神泉(1896-1972)や牛島憲之(1900-)の絵画を想起させて興味深い。徳岡の描く植物や池は、この世ならぬ世界へと観者を異なる次元へと導く幽玄な絵画である。一方、牛島の絵画から感受される淡い色彩、茫漠、有機的、生命的なかたちによる「うねりとリズム」は、須永の色彩にも通じるだろう。牛島の描く植物や大気、池や水などの情景を見ていると、まるで絵画が池のように周囲を清浄にし、湿潤な雰囲気が漂うのである。須永の絵画は、徳岡や牛島が作り出した絵画の水脈につながっている。この先、「THE GRINNING POND」の水がどのようになるのか、かたちなき水の流れをこの目で見続けていきたい。(京都国立近代美術館研究補佐員:平田剛志)
問い合わせTEL075・585・4160(ギャラリー知)。
JUNKO SUNAGA
須永順子 すなが・じゅんこ
1991年、 群馬県出身。2014年、京都造形芸術大学芸術学部美術工芸学科洋画コース卒業。
グループ展に、2012年、「Thinking Process」京都造形芸術大学学内展示、2013年、「GalleryTOMO 小さな作品展」、「Draw」、「めぐる」、ギャラリー知、2014年「京都造形芸術大学卒業・修了展」京都造形芸術大学、2014年「GalleryTOMO 小さな作品展」ギャラリー知、2014年「三日展」ART FORUM JARFO。
2014年、個展「THE GRINNING POND」(ギャラリー知)を開催。
https://www.kyoto-minpo.net/event/archives/2014/07/15/2008.phphttps://www.kyoto-minpo.net/event/wp-content/uploads/2015/04/20140715-04.jpghttps://www.kyoto-minpo.net/event/wp-content/uploads/2015/04/20140715-04-150x150.jpgkyomin-minpo画廊・ギャラリー 7月15日(火)~7月20日(日)12時~19時(最終日18時まで)、ギャラリー知(京都市中京区丸太町通寺町東入ル下御霊前町633青山ビル1F。京阪鴨東線「神宮丸太町」より徒歩5分)TEL075・585・4160。
初個展に付す言葉は難しい。行雲行水。作家の創作もまた水のようにかたちを変えていく始点で書き連ねる言葉など、川のごとく流れてしまうだろう。だが、流れる言葉も「古池や蛙飛びこむ水の音」がつくる波紋ぐらいにはなるかもしれない。
須永順子の初個展「THE GRINNING POND」が古池かどうかはわからない。しかし、「淀んだ池、何色にも見えない色」と書かれているように、かなりの古池かもしれない。もっとも物理的には池の水位は比較的浅いが、濁って淀んだ池が喚起させるイメージは、深さではないだろうか。池の水面は、鏡面のように周囲の世界が写り込むのに対し、水面下を見通せない水の不透明さ、不確かさは、さまざまな想像(創造)や深層心理を刺激する泉でもある。だからだろうか、池は薄い平面である絵画の題材としてよく描かれてきた。
須永もまた、池を主題に絵画を描いてきた1人である。須永の絵画を初めて見たのは、2014年の「京都造形芸術大学卒業・修了展」であった。卒業制作となる《生きた記憶》(2014)は、荒削りながらも、鮮やかな緑の色彩に孕まれた光が印象的な4枚組の大作であった。さながら水面の波紋のような抽象的なうねりとリズムは、穏やかで柔らかい絵画空間を形成していた。
池の水面に抽象的形象を最初に付与したのは、クロード・モネ(1840-1926)であろう。1883年にジヴェルニーに移り住み、1895年から自宅に作った庭園の池に咲く睡蓮を描き始めた睡蓮連作はよく知られていよう。モネの絵画は、晩年になるつれ水の流れのように、池の情景を描いたものから、池の水面に写りこむ空や樹、大気までが混沌と合わさる抽象的な画面へと変化していく。池の水位を変えるように、モネは水面に主観的、心理的なヴィジョンの層を見ていたのかもしれない。
では、須永の絵画はどうだろうか。私には、徳岡神泉(1896-1972)や牛島憲之(1900-)の絵画を想起させて興味深い。徳岡の描く植物や池は、この世ならぬ世界へと観者を異なる次元へと導く幽玄な絵画である。一方、牛島の絵画から感受される淡い色彩、茫漠、有機的、生命的なかたちによる「うねりとリズム」は、須永の色彩にも通じるだろう。牛島の描く植物や大気、池や水などの情景を見ていると、まるで絵画が池のように周囲を清浄にし、湿潤な雰囲気が漂うのである。須永の絵画は、徳岡や牛島が作り出した絵画の水脈につながっている。この先、「THE GRINNING POND」の水がどのようになるのか、かたちなき水の流れをこの目で見続けていきたい。(京都国立近代美術館研究補佐員:平田剛志)
問い合わせTEL075・585・4160(ギャラリー知)。
JUNKO SUNAGA
須永順子 すなが・じゅんこ
1991年、 群馬県出身。2014年、京都造形芸術大学芸術学部美術工芸学科洋画コース卒業。
グループ展に、2012年、「Thinking Process」京都造形芸術大学学内展示、2013年、「GalleryTOMO 小さな作品展」、「Draw」、「めぐる」、ギャラリー知、2014年「京都造形芸術大学卒業・修了展」京都造形芸術大学、2014年「GalleryTOMO 小さな作品展」ギャラリー知、2014年「三日展」ART FORUM JARFO。
2014年、個展「THE GRINNING POND」(ギャラリー知)を開催。kyomin-minpo
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