いまや両腕で抱えても指の触れあわない太い幹は灰色で、どことなく象の肌を思わせる手触り。頼もしい。
冴えた月夜に冬枯れの木の下に立つ。その枝影に私は小鳥のように留まる。月は枝の間をゆっくりと散歩して。
「これは、お宅の庭に生えている無患子の葉ではないですか」そう、問うてこられた。
「いかにも、これはウチのです」
散り広がる落ち葉は近隣の門掃きの手を忙しくしているのを日頃から気に病んでいたから、てっきりそうした用向きで来られたのかと内心うろたえた。
しかし、その人は「この無患子の実をわけていただけませんか」と、どことなく高揚を隠しきれない様子。聞くと、羽根突きを守りたい一心で羽の先に付ける無患子の黒い実を集めているのだという。四条を歩いていたらふと足下に無患子の葉が散っているのを認め、この近くに木の生えている家があるはずと探し当てて来られたことがわかった。そんなことならおやすい御用。こちらも毎年大量に採れる実の扱いに困っていた。
それから数年、実は羽の先となって乾いた音を響かせた。
この熱心に羽根突きを守ってこられた方が亡くなった後、無患子の実はお数珠に姿をかえて祈りの手元に掛けられることとなった。
こんばんは。先日、母と深大寺に行きました。本堂の右手に、ムクロジの木がありました。葉が黄色に紅葉し、とてもきれいでした。見上げるほどの大きな木。先月いただいてきたお数珠と同じなんだ・・・と思い、嬉しくなってしまいました。歌子さんの「京都町家の草木」に出合わなかったら、関心がなかったと思います。有難うございます。