「古事記」と聞いて、若い時から基本的で素朴な疑問がおす。二つ。
その第一は、何で連続して「古事記」と「日本書紀」ちゅう似たもんが、国の事業として造られたんやろ、ちゅう事どす。
両方とも、発案は天武天皇やそうどす。『古事記』が七一二年完成。『日本書紀』が七二〇年完成。その差たった八年。どっちも太安万侶(おおのやすまろ)が関わってる。これは何かあるのと違いまっしゃろか。
或(あるい)は当時の政治も、年金を集めといて有耶無耶(うやむや)にする今の政治みたいな杜撰(ずさん)な事やったちゅう事どすかいな。
こういう不可解な事から「古事記偽書説」が出て、今もこの説がすっかり退けられたんやないのやそうどすな。ほな何で『古事記』だけが疑われて「日本書紀偽書説」が出て来いしまへんにゃ。
どっちにしても偽書やとすると動機は何どす? 文章見ると、こんな偽書を作るのは御苦労さんな事やと思うし。作って何のトクがおすにゃろか。
偽物を作るちゅうのはね、──此処(ここ)から脱線します──それによって何かの利益があるちゅう事どす。例えばね、鉄斎の画の贋作作って、大きい手間暇かけて、高い費用かけて、安うしか売れんちゅう事誰がしますかいな。逆に費用ケチったら一遍にバレてあきまへんがな。
例の「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印。国宝になってるちゅうのは真物やと思われてるさかいどすわな。その真物の根拠、後漢の印制に合うてるさかいやそうどす。曰く材料が金。曰く鈕(つまみ)式(どんな鈕が付いているか)。曰く印面の一辺の寸法。曰く書体が篆書、等。
ちょっと待っとうくれやす。たんとの人に本物やと思わすように偽造する者が、こんな当たり前の条件を間違いますかいな。後漢の印制どおりちゅうのは、真贋鑑定の決め手になんかならしまへん。
決め手になるのは、唯一作り方どす。原印を作って型取って鋳込んだんか、印材だけ鋳込んで後から印文を彫ったんか。どっちのやり方にしても一回は印文を彫らんなりまへん。つまり篆刻。篆刻には道具や篆刻者によって独特の癖が出ます。時代が隔たると時代の癖も出ます。どっちの癖も、真贋わからんように真似るの至難の技どす。
正直に白状しますとな、我家では親子ボクまで三代、各代毎にバレた事のない同印を作ってます。勿論我家用どっせ。役所、銀行、企業、どこで使うても見破られた事おへん。
何のためや言うたら、銀行は当り前やけども役所や企業も、取引に使う印章を決めさせて、すべてその印章でなかったらあかんちゅう事どしたんや。そうしといて例えば掛取りに月末の午後とか言うてきます。ほな一人で集金に回りきれん事がおす。
しやおへんがな。見破られん同じ印を二顆作ったら、二人で手分けして集金に回れます。先々代は最初、相手毎に届出印を別々にしてたらしおす。けど取引先が増えるとだんだんやゝこしなったんどす。別に偽印で悪さするつもりやないさかい犯罪やおへんやろし、ボクらは真贋の意識は無うて、同印二顆と思うてました。
『古事記』が偽書やとしたら、どんな人が、どんな御利益考えて、どんな下調べやら腕やらで書いたんどっしゃろな。人間国宝みたいな人どすな。
脱線古事記
〈1〉『古事記』は偽書?
水野恵 プロフィール
篆刻家。1931年1月、京都市生まれ。江戸期から続く御用印判司「鮟鱇屈」の流れを継ぐ水野鮟鱇屈3代目。幼い頃から父の師河井章石に薫陶を受ける。京都府立大学文芸学科卒業後は、書を木村陽山に、篆刻は園田湖城に就いて学んだ。俳句や水彩画も手掛け、篆刻・書とともに文人として四絶を目指す。元佛教大学四条センター篆刻講座講師。
著書は、『日本篆刻物語 はんこの文化史』(芸艸堂)、『印章 篆刻のしおり』(芸艸堂)、『古漢辞典』(光村推古書院)など多数。
篆刻家。1931年1月、京都市生まれ。江戸期から続く御用印判司「鮟鱇屈」の流れを継ぐ水野鮟鱇屈3代目。幼い頃から父の師河井章石に薫陶を受ける。京都府立大学文芸学科卒業後は、書を木村陽山に、篆刻は園田湖城に就いて学んだ。俳句や水彩画も手掛け、篆刻・書とともに文人として四絶を目指す。元佛教大学四条センター篆刻講座講師。
著書は、『日本篆刻物語 はんこの文化史』(芸艸堂)、『印章 篆刻のしおり』(芸艸堂)、『古漢辞典』(光村推古書院)など多数。