証拠になる品物のうち、鏡と径百余歩の塚は類品がたんとおす。そのうち鏡は移動が可能やけど塚は動きまへん。ほなそれを見付けたらええ訳やけど、百歩そこそこの古墳は日本中にわんさかあるし、そのどれかを卑弥呼(ひみこ)の墓やと断定するのがしんどおす。片っ端から掘り返して金印でも出てきたら一発どすけどな。
女王国と銅鐸(たく)の関係は謎のままどすけど、銅鐸をたんと所有する事と、当時の権力との関係は誰も無縁やとは思わしまへんやろ。その銅鐸が大量に出土してその中に今までで最大のでっかい物が含まれてて、周囲にこの50年程の間にたんと破壊されたものを加えると20基程の古墳が蝟集(いしゅう)してる近江の大岩地区。出土地に接して、宮山古墳、甲山古墳、圓山古墳に囲まれて、まるで主墳のように円墳のように見える小山がおす。どうやら三段になってるようで大きさが百余歩くらいどす。此処(ここ)から琵琶湖へ出て少し北寄りに「佐波江」ちゅう在所がおす。ボクは前からこの小山が気になってますにゃけど、聞くところによるとこの山、周知の遺跡とやらになってへんようで、学会では古墳と認められてへんそうどす。古墳か古墳でないか、誰がどういう基準で決めるのか知りまへんけどな。
次に鏡。魏の鏡であって100枚程纏(まとま)ってるもん。それは所謂(いわゆる)三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)やないかて言われて、いまだにそうやとも、そうやないとも議論が分れてます。
南山城の椿井大塚山古墳からたんと見つかって、此処から全国へ頒けられていったんやないかちゅう小林説で有名になりました。その後、大和の黒塚古墳からもたんと出てきて、この2カ所の合計は魏から贈られたとされる数の6割を超えます。
不思議なんは、全国で見付かってる三角縁神獣鏡の総数は今のところ200面程ちゅう事どす。多過ぎますがな。
塚は当てにならん。鏡ももう一つ、となると「此処や」ちゅうハンカチの役をするのは印顆だけになります。使者に与えられんたは「魏志」によると後でもう1顆(か)あるさかい、金印1顆、銀印3顆が証拠の品どす。
とうとう此処まで詰めてきましたな。けど印顆は簡単に移動可能。もう一つ、卑弥呼の跡継ぎの壱与(いよ)が親魏倭王として認証された記事は「魏志」にはおへん。銀印も同じ。すると印顆の発見!めでたしめでたして問屋が卸しますやろか。
吉川英治の『宮本武蔵』をお読みのお方はん。下り松の決闘もそうやけど、奈良から柳生にかけての場面どう思わはります?
きっと吉川はん現地取材サボッて書かはったんどすわ。方向も距離も無茶苦茶。あの辺よう知ってる者は、あの場面で一遍に白けます。小説なら三里を十丁でも目塞ぎますか。
「魏志」もそうどすな。ボクも小説書くけど、場面の場所へは必ず足を運んで迫真力の足しにします。「魏志」のほかの部分は知りまへんけど「倭人条」に限っては、どだい史書とは思えまへん。あの方向と距離はどう贔屓(ひいき)目に見ても小説どす。それも杜撰(ずさん)な。
となると「倭人条」全部信用なりまへんがな。それを何で学者はんは御苦労はんに、東のはずを南と書き誤ったとか、当時の陸行や水行の距離がどうのこうのと助け舟出しますにゃ。どっちが南かくらい、お日さんが出て来る方向か昼にお日さんがどつちにあるかで子どもでも判る事どすがな。ヤマタイコク論争は御親切が過ぎるのと違いますか。