「天地初発」の後の『古事記』は、次々といろんな神が現れる話が、おもろい話を交えながら続きます。その現れ方の記述に二通りあります。一つは「成る」。「次、成神名、云々」ちゅう書き方どす。もう一つは「生む」「生まれる」。「娶○○、生子」のように書いてます。
この「成」と「生」の違いは何どすか。どうやら「成」は理由無しにパッと出現する場合。「生」は「御合、生子」「一宿、為婚」のように出生の確たる原因を記述した場合のようどす。
この二字はどっちもセイ、ジョウ等の音でアクセントも同じどす。そしてどつちも「なる」とその延長としての意味を持っています。皆さんは「柚子の実がなる」の時、「成」を使わはりますか。それとも「生」どすか。
『古事記』には「成」を使う場面でもう一つ有名な件(くだ)りがありますな。「以此吾身成余処、刺塞汝身不成合処而、以為生成国土」。
身体が造られてゆく時に出来過ぎて余分な所があったり、うまいこと合わなんだ場所があったりちゅう表現に「成余」や「不成合」と書いてますにゃ。そして国土を造るちゅう時は「生成」と両字を使てます。
そこで仮に神さんや身体を「像」やとします。皆さんが像を作らはるとしたらどう作っていかはりますか。仏像ならどうします? 雪達磨(だるま)はどう作ります?
円空は木の中に仏の姿を見て、その姿形を現すように木をはつっていったて言いますな。我々が雪達磨を作る時は雪玉を転して、雪をくっ付ける事によって雪玉を大きいし、最後に炭団(たどん)やら炭やらを付けます。つまり仏像なら材料を減らして作るし、雪達磨は材料を増やして造ります。
此処(ここ)で原義に当ってみまひょ。「成」は図1のように部品数は二どす。
イは掛矢、ハンマー、玄能(げんのう)のような大きい槌の写生。ロは楔(くさび)の写生。ハが「成」の古字。ニはこのとおりの形は歴史の表舞台には現れしまへんけど、こういう方向に字形が変化して現在の「成」になったと考えると判り易いさかい、補助線役として示したもんどす。
昔は木でも石でも切れ目を入れるか穴をあけて、其処(そこ)へ楔を打ち込んで、好きな形に割ったもんどす。今でも飛鳥の鬼の俎(まないた)や萩城跡へ行かはったら、楔穴の並んだ岩が見られます。割って持って行こう思て沙汰止みになったんどっしゃろな。
「成功」の「功」も原義は「槌で打つ」どす。要するに「成る」とか「成功」とかは、元々の意味は「楔を打ち込む」どす。その目的は偏(ひとえ)に思いどおりに割る事どっさかい、今は落成の意味になってますにゃ。
「生」は図2のように部品数二どす。いは草の写生。ろは地べたの写生。両方合せたはが「生」の古字。にははより後の変化形。これははが「之」の古字とよう似てるさかい識別符号を付けたもんどす。実は「玉」の点も「王」との識別符号どす。
「生」とは地面から草が生えてる姿の写生どす。これを「生えてる」と読むか「生きてる」と読むか。それが今は「いきる」「うまれる」「うむ」「はえる」「いける」「なま」等、賑(にぎ)やかになりました。
「生成」は今は「出来る事」どすな。ひょっとすると伊耶那岐神は「刺塞いで国土が出来たらええな」て言わはったんどすやろか。