ところでイザナギ、イザナミは伊耶那岐神、伊耶那美神どすか。それとも伊耶那岐命、伊耶那美命どすか。『古事記』では他に、伊耶那美神命や伊耶那岐大神とも書かれてます。
これらの書き分けは、謂わばいきゃたりばったりに見えますが、最初の神、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)から阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)までの十五神については、命とは言わへんのどすな。そして天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子供達以後は、神とは言わずに命どす。つまりその中間がいきゃたりばったりどすにゃな。
これが何を意味するのかはどうもはっきりしいしまへん。それで、これも両字の原義を見てみようと思います。
先ず「神」。これの部品数は後に増えますが古くは二。「示」と「申」。現在の「示」は増えてからの形。
「示」は神さんに供え物をする時の台の写生。それで「しめす偏」として、神さんに関する文字の意符になってます。そもそも「しめす」とは神のお告げの事どす。
今、意符て言いましたな。漢字には偏や冠の付いた字がおすやろ。その偏や冠の大部分は意符どす。つまりその字のうち、意味を担当する部分ちゅう事どす。例えば「さんずい偏」はその字が水に関する意味の字やぞ、て示してますにゃ。「くさ冠」はその字が草に関する字やぞ、て示してます。こういうのを意符ちゅうのどす。
も一つ、音符がおす。それはその字が中国語の音声を表してるもんどす。例えば「柱」は「木」が意符、「主」が音符。そやさかい「柱」とは「木に関するもんであって、主─シュ─チュウちゅう中国語で呼ぶもん」どす。「鯨」とは「魚であって、中国語でケイ─ゲイて呼ぶもん」どす。
これら音符としての部品を持ってる字を、学の世界では「形声」て言います。但しこの言葉もめんどくさかったら憶えんでもよろし。
字によっては音符としての部品が無うて、意符ばっかりで構成されてるもんもおす。例えば「林」「森」「為」「見」等。これらを学では「会意」て言いますが、この言葉もじゃまくさかったら憶えんでよろし。
そいで「神」どすけど、「示」は神さんを表す意符。「申」は以前に図でお知らせしましたけど、この形は稲妻の写生どす。写生やけど当時の人々は雷の原理なんか知らんさかい、現象の異様さばっかり感じたはずどす。それで写生としてはあんまり写実的やおへん。けど稲妻どす。
且つ「申」は音符も兼ねてます。こういうのを難しうは「会意形声」て言います。
ちゅう事で、神さんちゅうもんは、存在するに違いないけど常々は姿が見えん。それが唯一、姿そのものや無いけど天に居るのが確認出来る機会が稲妻ちゅう訳どす。そいで「神」は「かみさん」。
天之御中主神や天照大御神とかは、『古事記』では天の神どす。その限りでは、彼等に「神」を当てたんは妥当と言うてよろし。
けど速須佐之男命(スサノヲノミコト)と櫛名田比売(クシナダヒメ)との間に生れた子供の八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)から始って六代目の孫に当る大国主神(オオクニヌシノカミ)までの出雲の一族は全員が「神」どす。出雲は天やおへんのにな。
勿論、太安万侶(おおのやすまろ)が漢字の原義を知ってたはずおへん。それなら尚更「神」と「命」の使い分けは何どすにゃ。そして天照御大神の子の正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)から、ずっと子孫は豊御食炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト=推古天皇)まで、「神」はおへん。
近頃、成り行きで、「修験道研究(遊びのひとつ)」にハマッてきています。「稲妻は神さん」とは、「天神信仰」(道真)の絵等にもよく出てきますね。歌舞伎で「鳴神」と言う演目にも雲ヶ畑の山奥で、雷に雨を降らせてくれるように祈る場面がありますね。
昔の人は、雷(稲妻)とは「自然力」であり、「自然の神」(原始宗教)のひとつだったに違いありません。道真の怨霊は、藤原氏等の有力貴族にとって
怨霊から逃れるために稲妻の力を借りたかったのかも知れませんね。