宿題を出しておしたな。ずっと出しといて皆さんに考えてもろてもよろしにゃけど、ちょっと難しいかと思て答えを申しときまひょか。
先ず「」。又々造字法から申します。漢字には同じ部品を付け足してゆく造字法がおす。よう知られてるのは「木」→「林」→「森」。「火」→「炎」→「焱」。
これは原則的に三つ止り。四より多いもんは三つで代表さします。つまり三つ書かれてるもんは三つて言うのや無しに「三つ以上のたくさん」と思たらよろし。
この原則は部品の写生にも当て嵌(はま)ります。手指は五本やけど手の側面形「又」では指が三本どす。足指も五本やけど足跡「止」の指の数は三本どす。木の枝も根も三本しか無い訳やおへんけど三本ずつしか書かしまへん。草の葉もたんとあっても三枚だけ。
ところが例外がおしてな。「」「」ちゅうのもおすにゃ。
その例外の一つに「口」「」「品」「」がおす。「雷」も一つから四つまであって、数が多なる程どえらい雷になりますにゃが、「口」もだんだんやかましさが激しなりますにゃ。
この「口」群に「犬」を添えると犬の鳴き声の大きさ、喧(やかま)しさの階級が出来ます。どういう訳か「品」だけ飛ばして「吠」「哭」「」ちゅう具合どす。「品」と「犬」の合字が無いのは書の意識からやないかと想像します。中国人は甲骨文の時代から現在まで、同じ書くなら美しうちゅう意識がおす。「品」と「犬」ではきっと恰好が付かんと思われたんやおへんかいな。
我々日本人からすると、こういう理由で「品」と「犬」の合字が無いのは理解し難うおっしゃろけど、それが文化の違いやと思います。殊に最近の日本は品が悪いと思います。読めさえしたらえゝやないか、ちゅう風潮。ポスター、ロゴタイプ、テレビ映画の題字、その他に恥しい文字をたんと見ます。失礼やけど、過去四、五十年の総理大臣で感服するような字を書いた人が居ましたか。たった一人、三木武夫はんだけやおへんか。文化国家の名が泣くわ。ほんまに。
「器」の原義は犬がギャンギャン吠える。「うつわ」は古い中国語でキ。その本来の字は「簋」「箕」「匭」「匱」「櫃」「簣」。これらはそれぞれ材料、形、用途等の決ったもんを指します。やがて「うつわ一般」を指す文字が要るようになって同じキと読む「器」を借りて使う事になったんどす。こういうのを学では「仮借(かしゃ)」て言います。
論語の「君子不器」は、君子は騒がんもんやとボクは読んでます。
次に「谷」。これは部品数一。部品数一のもんを「文」て言うにゃて前述しましたけど、只今の学では全体象形て言います。
その全体は女陰の写生。上半は大小の陰唇、下半は膣口の写生。「口」は穴として使われてます。誰どす?これを「割れ目ちゃん」て言うた人。上手どすな。古うからこの字は割れ目として山谷の意味で使われてます。
『老子』の「谷神不死」。「谷」を山谷で読むさかい、訳の解らん飜(ほん)訳がたんとおす。「是謂玄牝」これは不易流行してゆく牝(の機能)をこう呼ぶにゃ、て老聃君は言うてます。「綿々若存」とも。
「神」は此処(ここ)では神髄やと思たら解り易おす。「女陰の神髄ちゅうもんは死ぬ事が無い」との説どす。つまり個は亡んでも継がれる生命と、それを生み出す能は綿々と永遠に続くとの説どす。