出雲て言うたら八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)。八俣遠呂知言うたら、草那藝之大刀(くさなぎのつるぎ)。
ボクらが小学校で習うたんは、この時点では天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。後に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の時に賊の火攻めに遭うて、この剣が草を薙ぎ攘(はろ)うてくれたさかい難を免れた。それからこの剣を草薙剣と呼ぶようになったと習いました。これは当時の学校教育が『日本書紀』に従うてたさかいどす。
大蛇退治も日本武尊も史実やと信じてる人はいやはらへんと思います。そうやったら、この大刀の名前の問題も、『古事記』や『日本書紀』が造られた時の思想によって創り出されたと言うてよろしやろ。何(いず)れ景行天皇の時代の所で、『古事記』が小説である事を露呈してる指摘をしたいなあと思てますにゃが、今は措いといて、「草那藝」の文字についてお話ししまひょ。
先ず「草」。クサの単数の文字は「屮」。これはクサの写生そのものどす。複数は「艸」。「屮」二つ。クサは我々の目には群生で見えるさかい、クサカンムリは「艸」どす。ほなクサ一般を表す文字に「艸」と「草」と二つあるのかいな。
「草」は先ず「艸」と「早」の二つの部品で出来てます。「艸」は右に申したように更に部品二つどす。「早」は先ず「日」と「十」の二つの部品どすが、「日」は「○」と「・」の二つの部品で出来てるさかい、結局「草」は五つの部品で構成されてます。
問題は「早」どすな。「日」はそのとおりお日さん。「十」は何や。これは10とは違て「甲」の最古の形。「甲」は十の形にも書いたけど、同じ時代に図のようにも書きました。この形は貫頭衣の写生。四角い布の中央に十の形に切れめを入れる。そこから頭を出す。全体を書くか、切れめだけ書くか。
「甲」を甲冑の意で使うのは何でや。そもそも日本では鎧と兜が曖昧どすにゃ。カブトヤマ、カブトガニ等に「甲」を使うたりするさかい。カブトは「冑」。「甲」は貫頭衣型の鎧、つまり日本の腹巻。
「日」と「甲」で、貫頭衣から頭を出すような姿で日が昇る意。「速」は歩くのがハヤイのような意。「早」は朝ハヤクの意から、特売にハヨウから並ぶのような意。
かくて「草」とは芽の出たてのような稚草の意で、本当はクサ一般やおへん。
もし文字の原義に従うのやったら、日本武尊が助かったのは丈の高い艸が薙ぎ攘われたのやさかい、この大刀は「艸」どすけどな。
次に「那」。これは或(ある)村落の固有名詞で、一般に使う文字やおへん。漢字にはこんなんがたくさんおして「浙」「淇」「岱」「岷」等はみんなそうどす。
では「藝」。今はこの字の意味で「芸」を使いますな。実は「芸」は全くの別字で、音はウン、訓はカヲリグサ。このクサで昔は紙魚(しみ)を防いだもんどす。「芸」に園藝や藝術の意味はかけらもおへん。第一「芸」と書いたらウンと読ますのかゲイと読ますのか、判らん事になるのに何で文部省はこんな稚拙な事をやったんどすかいな。藝の無い話どすな。
「藝」は元々は「」。「艸」と「云」は後の付加。「」は図のように人が跪(ひざまず)いて草を植える状の写生。原義はそやさかい「園藝」どす。
後に先ず「艸」の付加がおしたんは、木を植えるのや無うて草に限定するためどす。更に「云」を加えたんは「耘」の旁を加えて、土をよう鋤く意を付けたんどす。「草作りは土作り」。
数年前、大阪府和泉市にある弥生文化博物館に行ったことがあります。広い敷地の中に高床式の大きな建物や弥生時代の住居跡が再現されていたりで、弥生時代に戻ったような気分になれました。皆様も一度、大阪弥生文化博物館にお出かけ下さい。阪和線では、信太山(しのだやま)駅下車となります。
ここで弥生時代に使われていた絵文字が建物のいろいろな場所に刻まれていました。所謂、象形文字ですが、複雑な構造のものは少なかったです。ある程度、意味がわかるものもありました。ハングル文字にも似ているのかなとも思いました。
実は、ここの弥生文化博物館作りには、僕の院時代にお世話になった南清彦先生(2009年1月にご逝去)の親子2代に亘る功績のひとつでもあります。先生は、農業経済が専門でしたが、民俗学や歴史学や宗教学でも業績を残されました。
昨日は、先生のお宅に弔問に行ってきたところです。