前回、一つ書き洩らしましたな。歳どすな。「日」が部品二つちゅう話。
世界にはいろんな文字がおす。その発生期ではどの文字も生活に関わりの深い物事、生活の至近の物事が先ず文字になったようで、人ちゅうもんは種族が違うても考える事では大差無いな、て思います。
手っ取り早う言うたら食う寝る所に住む処に関係する文字が先ず現れます。
日、月、星、雨、水、火、土、木、人、女、子、目、口、鼻、耳、手、足、鳥、魚、等がそういう文字どす。これらを基本として、漢字ではその組み合せで次々と文字数を増やし、組み合せではあかん場合は新しい写生をして、とうとう五万字を超える事になりました。
それで足らいで、日本では独自に擬似漢字を造りました。それを国字て言います。「辻」「峠」「榊」「鰯」「鵤」等。
人の考える事は大体似たようなもんやて言う時、「日」と「月」は随分はっきりしてゝ、大体「日」は円を画き、「月」は半円を画いて文字としてます。もし我々が現在の天文学の知識無しに空を見て、日月の事を記録したり人に伝えたいと思うたら、やっぱりこうなるのと違いますか。
この発想を造字法て言うのどすが、国字の造字法も多くはこの類どす。道が十文字になってる所やさかい「辻」。山道を上って行ったら其処から下りに変る所やさかい「峠」。単純明快の見本みたいなもんどす。
ところが漢字にも他には無い単純明快の見本がおす。前に漢字を分解して部品に分け、それ以上は分解出来ひん所まで行ったら、その基本的な部品は何かの写生や、て申しました。けれど世の中には写生だけでは表現し切れん概念がおす。それを文字の形にするために漢字の造字法には僅かながら、写生に拠らん純記号がおす。それをボクは指事符て言うてます。
「日」や「月」の中の「・」は指事符のうち涌発の指事符どす。その中から何かゞ出て来る事を表す記号どす。たんとの漢字に使われてゝ「心」では血液が涌き出し、「母」では乳が涌き出し、「井」では清水が涌き出し、「身」では大きなお腹から赤ちゃんが産れ出る等々どす。「日」「月」では勿論発光を示します。
これを裏付ける文字がおす。「旦」どす。漢字が出来た頃、中国人たちの世界観は今とは違てました。一番外に天空ちゅう中空の球体があって、我々の居るところは「地球」や無うて「地平」。地平とは板状の物体。その四隅が太い綱で天空から吊り下げられてる。この構造やと太陽の運行は地動説でも天動説でも無うて日動説になります。天球も地平も不動で、太陽だけが天球と地平との隙間をグルグル周るのどすな。
当時、太陽は十個あると思われてました。それが一日おきに交代で周ると。交代が一巡するのを一旬て言います。休みの九つの太陽は東方の桑の枝に止って寝てると。
こゝで問題がおす。寝てる太陽も発光してるとすると夜も昼も年がら年中、東の方はむちゃくちゃ明るいはずや。そうでないのは、寝てる最中は発光をやめてるに違いない。つまり太陽には発光するしないを制御する能力がある。かくて発光しない太陽ちゅうもんが存在する事になります。
これでやっと夜の闇の説明が付きます。当番の太陽が地平の裏側にある時にも発光してたら、その光が天球に反射してぼんやりとでも明るいはずやけどそうでないのは、その時当番太陽も発光をやめてるにゃ。
朝とは、暗い太陽が桑へ戻って来て、次の当番が発光を開始して飛び立ち、その枝へ暗い太陽が止る時。かくて「旦」は「・」の無い太陽の上に「・」のある太陽を書くのどす。