東北へ行った時「ハスをワトゥッテスダリ」と聞こえた事がおした。道を尋ねた時の返事どす。一瞬戸惑いましたが、すぐ「橋を渡って左」やと判りました。
同じ東北でも其処とは大分離れた所で、萱葺き屋根の葺替えをしてるおじいさんと話した時には「クサでクタカ」て尋ねられました。ウッと詰りましたが、すぐに「汽車で来たか」やと判りました。
出雲の木次の人が来た時には、彼の話す事が半分かせいぜい三分の二くらいしか判らしまへん。奥さんが標準語を使えるので、あっちこっち通訳してもろたもんどす。
どうやら東北の地の人と出雲の地の人とは、同じ発音をするみたいどすな。それで、東北は出雲の国やったちゅう説がおすにゃな。あの発音の元は出雲で、国が広うなって東北にまで出雲語が進出したと考えるのどすな。
『古事記』の大国主命(オオクニヌシノミコト)の国譲りの話では、息子の建御名方神(タケミナカタノカミ)が高天原方の建御雷神(タケミカズチノカミ)に対し「科野国(しなののくに)の州羽(すわ)海より北へは行きませんから命だけはお助けを」て言います。それと「雉子(きぎし)の頓使(ひたづかい)」の話のように、高天原方は、大国主命に国をあけ渡さすのに、随分苦労をしてます。
何で無条件で国をよこせて理不尽なあつかましい事をするのか、その理由はよう解りまへんが、とにかくこの辺の記述では当時の日本は全土とは言わいでも、相当広い部分が出雲やったようどす。尤(もっと)も史実やと思う人は居やはらへんやろし、史実やて言える証拠も見つからしまへんやろ。けど、今も出雲と東北が同じ発音ちゅうのは、ボクには気になります。
銅鐸がドドンと大量に見付かった場所も出雲と近江。当時の近江が出雲の国の一部やったとしても、東北の発音よりもずっと距離が近いのやさかい、そうかも知れんて思いとうなります。
「雉子の頓使」の話では雉の名は「鳴女(ナキメ)」となってます。『古事記』のこの辺の話を宙(そら)で憶えてへんお方のために簡単に紹介しまひょか。
高天原では、そろそろ天孫降臨で天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫を日本へ遣わして治めさせよちゅう気運になった時の事どす。ところが葦原中国(あしはらなかつくに)つまり日本の国土は国ツ神つまり先住の神が荒振って、とても降臨出来んて判ります。
それで次々と無条件明け渡しを交渉する使いを派遣するのどすが、みんな国側の懐柔に掛って復命せえしまへん。その何番めかに鳴女が遣わされます。
鳴女は先に遣わされた天若日子(アメノワカヒコ)の邸の門前の樹に止り「言委曲、如天神之詔命」、つまり高天原の神の言いつけを詳しく述べたんどす。
結局は鳴女は天若日子に射殺されるのどすが、此処で、審(つまびら)かの事を「委曲」と書いてます。委細て言うても大差おへんけど、詳しい事をこう書くのを、一遍原義に当たってみまひょ。
「委」は部品二。「禾」と「女」。どっちも文、つまり全体象形。「禾」は禾本科(イネ科)の植物の事。木でも無く艸でも無い、ちゅう事は木よりもしなやかやけど艸のようには弱うない意味を持ちます。そういう女性を「委」て言うのどす。頼りになるさかい「ゆだねる」意味が後に加わりました。
「曲」は「荘子」の友人の屍の傍で歌うてる場面で使われてますが、其処では原義で使われてます。これは、今の人は知らんかも知れまへんが、柳行李(やなぎごうり)か葛籠(つづら)のようなもんどす。「いかき(=かご)」の類は「其」と書きます。
「委」は原義から引き伸ばして細やかな心根、「曲」は込み入った細工。かくて「委曲」は「審か」の意味になりますにゃ。