『古事記』では神の系譜には詳しいけど、科学史や技術史と言える記述が殆どおへん。草那藝之大刀かて銅剣やったんか鉄刀やったんか説明がおへん。
もしそれを書いといてもらうと、話が神話であっても、神話そのものゝ時代設定が判りますにゃけどね。古事記が書かれた頃には、その昔、銅剣や銅矛が使われてた事が、もう忘れ去られてたんどっしゃろか。
大国主神(オオクニヌシノカミ)が無条件降伏で葦原中国(あしはらなかつくに)を明け渡す時、降服の証として高天原側へ御馳走を作って献上する事が述べられてますが、其処(そこ)で先ず調理に使う火についての記述がおす。それがどうも理屈に合いまへん。
今はライターとかマッチとか便利なもんがおすが、昔は火打石と着け木でやってました。それよりもっと前は鑚(き)り火言うて、板に穴をあけて、其処へ燧(ひきり)杵ちゅう木の棒を当てごうて錐揉みをして火を起こしてました。
その板と燧杵の説明がおすにゃが、板は「海布の柄」、杵は「海蒪之柄」としてます。海布言うたらこんぶかわかめの類と違うのかいな。海蒪言うたらあおさや海松(みる)のようなもんどっしゃろ。それらの柄、つまり茎、そんなフニャフニャのもんで火が起りますかいな。仮にカラカラに乾したとしても無理々々。
もしこれを、『古事記』の編集部では理屈に合わん事がよう判ってたけど、こう書く事で、人には出来ん事が神なら出来る事を強調したかったと考える事も出来ます。けどそれは少々しんどい援護に思えますけどな。
京都の祇園さんのおけら詣りでは、親火から火縄に神火を戴いて帰ります。この火縄は木綿縄に硝石を染み込ませたもんどす。銃に使うのもこれどすな。
前述の着け木。これは剥板(へぎいた)の端の方に硫黄を塗ったもんどす。ボクらは、おくどさんの火を何処かへ移すときにもこれを使うたもんどす。
此処で『古事記』に出てくるのやおけんけど、「主」について申しまひょ。古うは図の(イ)のように書いて火焔の写生。火焔はまっすぐ立ち上がるさかい合字では垂直状を表します。「柱」「注」等。
この字が「あるじ」の意味で使われるようになったんは、火は元火、親火として保存されてゝ、その管理と保守はあるじの役目やったさかいどす。今のマッチの役目を鑚り火にやらせたら大変なんどす。親火を消さんように大事にしてたんどす。比叡山や安芸の宮島には何百年も燃えてる親火が現におすな。
そこでどすな。親火から火を取るのに、着け木の役を昔は乾燥した海草にやらせてたと考えたら。海松や石蒪なら海岸にたくさんおすし。
古事記編輯(しゅう)部がこの鑚り火と着け木を取り違えて記述したとしたら、おもろうすにゃけどね。あきまへんか。