その人情が昂(こう)じて、『古事記』そのものに於て日本つまり葦原中国ではないとしてる高天原まで、それは此処やちゅう話をよう聞きます。大和の葛城もそうやし、京都の蹴上には天の岩戸があるし、九州の高千穂には八百万の神が集って会議をした天の安の河原があるし、ちゅう具合どす。
一番人々の関心を惹くのが天孫降臨の地の高千穂と違いまっしゃろか。その原因は九州に現在、高千穂峡と高千穂峰の二つの高千穂があるさかいと違いますかいな。
この場面、『古事記』では「筑紫日向之高千穂之久士布流多気」に降臨したとなってます。この「久士布流多気」をどう読んでも、現地には該当がおへん。一般にクジフルタケと読むようどすが「久士布」を九重や九住と読む事は出来まへんのかいな。ボクはそんな無理はせんでえゝと思てますけどな。
これは「昔々ある所に」の「ある所」に勝手に名前を付けたと考えたらあきまへんか。もしそうやとしたらテレスコ、ステレンキョウ、チリトテチンと同列の名どすにゃけどな。
前に申しましたな。『古事記』は史書や無うて小説と違うかて。小説なら現実の地名は、その場面の時代の地名で無うてもえゝ勘定どす。天孫降臨の場面の地名も『古事記』が書かれた時の地名でよろし。それでは具合が悪い時はテレスコ式にやったらえゝ訳どす。
熱海へ行ったら「お宮の松」ちゅうのがおす。「へえー。これがそうか」言うて記念写真の人がいやはります。貫一・お宮の話は小説で事実やおへんのにな。人ちゅうもんは、わざわざ騙されに行く動物なんどすな。
もう一回断っときますけどな、『古事記』に出てくる地名は、『古事記』が書かれた時の地名どっせ。伝承の地名いう事にしたっても、神代やとか高天原やとかいうもんが架空なんやさかい、それが現実の九州やら葛城やらに在るはずおへんがな。ボクらは紀元2600年、国中挙げて祝うたもんどす。『古事記』の成立が七世紀の終ろうとする頃やとして、記紀のこの数字で計算すると神武即位からでさえ1900年程経ってます。天孫降臨は更に昔。
2010年の今年に、『古事記』の地名を現在の地名に比定するのは徒労やと思います。「昔々ある所」でよろしがな。
そこで亦「久士布流」の原義談義しまひょか。「久」は部品数二。図の(1)は「尸」を少し斜に書いたもん。「尸」は人の坐位の側面の形。(2)は多分棒の写生。すると全体で人の腰に棒を当てごうてる姿になります。ボクらの若い頃、方々の山でよう強力(ごうりき)さんに遇うたもんどす。あの人達はなかなか休まんもんどすけど、休む時は荷を卸さんと担いだまゝ、立って荷の下に杖を当てごうて休んだはったもんどす。その姿は「久」の字形そっくりどす。ボクは「休憩」は本来「久憩」やと思てます。「休」は本来「」と書くべき文字で「給料」の事どす。「ひさしい」は仮借(かしゃ)どす。
「士」は文。つまり全体象形。鉞身(えっしん)を刃を下に向けて書いてます。漢字が生れた頃から暫く、鉞(まさかり)は王権の象徴で玉製の遺物もあります。鉞を揮(ふる)う者は偉丈夫(いじょうぶ)どすにゃ。
「布」「流」は次回のお楽しみ。