担ぎ屋さん、「かつぎ屋さん」と読みます。もう今は無いお商売だと思います。今程流通事情が良くなかった昔、地方の山村や魚村等交通の便も少なく、人や物の移動の不便な地域と他の地域(都市又は地方の町村)間を往来(いきき)して小口の荷物を運んでくれるお仕事がありました。私の見聞きしたのは丹波、丹後地方から京都へ農産物、海産物を運び、帰りには京都で製造された凡(あら)ゆる商品を注文に応じて担いで届けられていた、そんな方々でした。JR、昔は国鉄と言いましたが、山陰線の二条駅で降りられ市内のあちこちへと散って行かれます。そんな方々の為の中継所や日を定めて開かれる販売所、宿泊所等が駅周辺につい近年まで見られたものです。
私の実家へ来てもらっていたのは丹波の大納言小豆、栗を扱う方で何故かお名前が木曽さんでした。この方はとても大柄な方で背丈もあり、肩幅も広く、手はまるでグローブの様に大きくて、大相撲の千代の山みたいな方でした。
背中に大きな風呂敷包を背負い、時には両の手にまで荷を下げて、「こんちは」と入って来られ、案内を待つでもなく工場の方へ通られ早速荷を開かれます。9月中頃から栗、10月中頃には大納言と云う様に荷を届けて、暫くその年の出来具合、また他の産物(寒天、つくね芋)の話等され、時分刻(じぶんどき=食事時)ですと「奥さんお茶もらいます」と言われ、大きな弁当箱を開かれる事もまま有り、帰る前には腹巻の中から大きな手帳を取り出し、注文を控えたり、これから廻るお店を確認して「お邪魔さん」と腰を上げ、少し小さくはなっても、まだまだ大きい荷を担がれていかれました。至って無愛想な人でしたが、私共に「坊お土産や」とイガ栗を持ってきてくれたり、祖母や母に「虫喰いやけど」と松茸を置いていったりという事もありました。
持って来られる大納言小豆も栗も、家で選(よ)って来られるのか粒揃いで、小豆色、栗色の美しさは今も目に浮かびます。
栗が届きますと手すきの者は面取包丁を手に栗剥きに掛かり、鬼皮、渋皮と剥き上げて水を張った大鍋にほうり込みます。そこそこの量が溜まると煮て渋を抜き、形が崩れぬよう注意しながら煮上げ、蜜漬けします。最後の蜜入れまで約1週間かかります。手間な事ですが、この作業を終えないと京都のお菓子屋に秋は来ません。毎年毎年、栗の山を前にして「なんでこんな減らへんね」とボヤきながら剥き続けています。栗きんとん、栗上用、栗餅、1カ月足らずですが栗、栗、栗で今月は更けていきます。
私どもの栗きんとん「山里」は、デパートの菓子売場でよく見かける、栗が上に乗ったものではありません。栗その物は目につきません。蜜漬けの栗を篩(ふるい)で通して白餡と混ぜて栗餡を造り、丹波大納言の芯に付けていきます。栗、白餡、粒餡の風味の融合を楽しんで頂くのが京菓子の栗きんとんです。
山の幸が実る頃、野も黄金色に稔ります。「稔り」は、道明寺で漉し餡を包み、稲穂の形にして、豆の粉をまぶします。
「野面の彩」は、餡に米の粉を混ぜて蒸した村雨という生地を土の色、葉の色、花の色と染め分け、中に好みの餡を入れます。野山の秋の稔りに支えられて京都のお菓子も実ります。
丹波から大納言小豆、つくね芋、栗、寒天、近江からは良質の江州米から米の粉、餅米、餅粉が届きます。地産池消、この地理的環境も京菓子を育てた大きな要因の一つです。