物みな全てが「弥(いよいよ)生ず」という月です。月初めには雛の節句、二十一日は彼岸の中日と何かと行事も多く、心弾む月ではあります。野辺には草花が、山には木の花が開き、水辺には春の風に乗って魚や貝が寄せて春の到来を知らせてくれます。
引千切(ひちぎり)
雛の節句のお菓子、ひちきり─ひちぎりと言う事もあります。漢字で書くと引千切。引き千切った形、阿古屋貝の開いた形、陰陽の陰─名前の由来についてはいろんな説がありますが、元は宮中の戴き餅(千切った餅の真ん中をへこませ、餡玉を置いたもの)ですが、町方で使われるようになってから彩もカラフルになり、餡も漉し餡だけでなく、粒餡や白餡、更にそぼろまでのせるお店もあり、生地も「こなし」でなく蓬入りの団子生地を使われるお店もある位様々なひちきりが出回ります。
西王母
朧饅頭
若柳
雲居の錦
お正月の葩餅(はなびらもち)もそうですが、京菓子の中には宮中、御所の祭事から出たものがいろいろ見られます。御玄猪(おげんちょ)から出た亥の子餅、七夕行事の折の乞巧奠(きっこうでん)や、現在「和菓子の日」になっております嘉祥(かじょう)喰いの行事から残る嘉祥菓子などがあります。
古くから御所へお出入りのお店には節句ごと、行事ごとに納められたお菓子が通帳(かよいちょう)や画帳に記録されています。堅苦しい有職故実はともかく、宮中で行われていることが町中へ伝わり、それなりに消化されて取り入れられているという事も京菓子の特徴の一つと言えます。
京都には神社、各宗派の総本山も多く、茶道、華道、香道、能楽等あらゆる伝統文化の家元、又はそれに準ずる先生方が居られ、その各々にお出入りのお菓子屋がありますので、折々の定め事のお菓子、季節のお菓子をご注文いただくことが明治以降だけでも百四十年あまり続いていることから直接、間接に影響を受けてきたことも特徴の一つと言えましょう。
例えば、よく言われる事ですが、京菓子の色、形は抽象的なものが多く、琳派の影響を受けているという事、確かにそのように思われますし、実際、干菓子の型等にも琳派の梅、菊が使われていますし、乾山(けんざん)のデザインを応用して使われているお店もありますが、単に琳派に止まらず大きな意味で京の風流の影響というのが正しいのではないでしょうか。
ひなまつり
雛飾りは「雨水」が良いとされています。今年は2月19日でしたが、もう飾られましたか?
天明7(1787)年に常陸宍戸藩(現在の茨城県笠間市付近)の5代藩主であった松平頼救が隠居してから著した暦の解説書『暦便覧』に、「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されるとおり、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めます。また春一番が吹き、鶯(うぐいす)の鳴き声の聞こえ始めるのもこの時期です。古くより農耕の準備を始める目安とされてきました。
雛祭りのお菓子にも季節感があり、邪気を祓(はら)い長寿を祝う意味が込められています。現在では、菱餅やひちぎり、雛あられなどが一般的ですが、もともとは草餅を食べていました。
延宝4(1676)年に黒川道祐が著した『日次紀事』の3月3日の項目には、「草餅を製し各々これを食す」とあり、自家製の草餅を作って食べていたことがわかります。草餅といえば蓬(よもぎ)餅をいいますが、ここでは母子草(春の七草の一つでいわゆる御形=ゴギョウ)を用いていたようです。この蓬餅がさらに変化し、江戸時代の後期ころには菱餅の原型となります。また初節句の返礼としてこの菱餅を贈るのを通例としていたことも記されています。具体的には「菱餅三枚、上下は青、中は白なり」とあります。明治以降に桃色が加わり、下から緑・白・桃の3色の餅を菱形に切って重ねられます。これは緑は草萌える大地を、白は雪の純白を、桃色は桃の花を表しているとされています。(参照=京都民報2月27日付8面より)