人形の原初の形態は人の災いの身代わりになってくれる形代(かたしろ)だと考えられています。形代に災いを移し、川や溝に流す習俗は古代より存在し、実際に木片の形代が考古遺物として平城京などで発掘されています。このような形代の性格を色濃く残している人形がこの天児(あまがつ)になります。天児の名称は『類聚雑例(るいじゅうざつれい)』という平安時代の儀式書や、室町時代の辞書である『仙源抄(せんげんしょう)』などにも記載されていて、成立はこれよりも古いと考えられます。
しかし実物資料としては江戸時代初期のものが最古となります。その形は30センチほどの丸い竹や木を1本横にして両腕とし、2本を束ねて胴体にしてT字形のものを作り、それに白絹で作った丸い頭をのせ、頭には目・鼻・口が描かれています。これに衣装を着せ、これが天児の基本的な形となります。けがれを祓うという性格上、子供の無事な成長を見届けると川や溝に流したり、燃やして灰にしたりします。そのため古いものが残っていないのだと考えられます。
天児は皇室や公家、上級武家の風習として伝えられ、子供が産まれるとその枕元に飾られ、けがれや災いなどの災厄を祓い、その子の無事な成長を祈願するために用いられます。
子供の死亡率が高かった江戸時代以前では、医学も現在ほど発達しておらず呪(まじな)いに頼らざるを得なかった親の気持ちの込められた人形だと言えます。
一方、庶民はというと、這子(ほうこ)という人形を天児と同じように飾っていました。わら束などを芯にして白い紙を貼って作られていたり、白絹で中に詰め物をしたぬいぐるみの様な素材で作られています。その形状は幼児が元気に這い這いする姿に由来するといわれています。
江戸時代中期には、天児を男雛、這子を女雛として飾られている絵画があります。天児・這子の形が立雛の男雛・女雛に似ているためだと考えられます。このことから子供を災いから守る天児や這子を雛のルーツだという説もあり興味は尽きません。