ちまたでは大河ドラマ「篤姫」がブームである。登場する女性たちが着ている着物にも力が入れられ、その影響なのか最近では和装姿の女性を見かけることが多い気がする。ドラマに関連した展覧会や講演会なども各地で開催され、人々の関心の高さを表している。かく言う筆者も先月は静岡で皇女和宮の御人形について講演してきた。この人気のドラマもとうとう最終回を迎える。
江戸城を無血開城した後、明治新政府により西洋化が促進され、人々の生活は急激に様変わりしていく。今までの古い慣習や習俗を廃止し、太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に改暦したのである。この改暦にともない五節句が廃止され、三月と五月の節句行事も行われなくなり、人形を飾ることはなくなった。
明治二十年代になると人々の生活も落ち着いてきて徐々にではあるが節句行事を行う家庭が増えてきた。しかし改暦により季節感にズレが生じ、人々は戸惑いを感じていた。また社会情勢として、明治二十二年に公布された大日本国憲法の発布、明治二十三年の教育勅語に基づいた国家主義的な教育、明治二十七年から二十八年の日清戦争、明治三十七年から三十八年の日露戦争など、急速に国家主義・軍国主義へと傾倒していく変革の時期であった。
このような流れの中で復活した節句行事であるため、江戸時代以来の雅なものを好む人々もいたが、新しく戦争物の節句人形も作られるようになる。
写真は、馬に乗った軍人姿の人形である。京都では、この馬上の人形に将校一人を附属として飾ることが明治四十年代に流行する。
京都の一般的な傾向として陣屋物として飾られる甲冑よりも座った大将人形と従者のセットの方が多くなり、しかもただ単に良いものというだけでは買い手も納得しなくなり、きちんと考証された人形が好まれるようになる。題材としては応神天皇、神功皇后と武内宿禰、楠正成、源義経、八幡太郎義家などが人気であった。また新式の人形として写真の馬上軍人や明治天皇、東郷平八郎、乃木希典、広瀬武夫などの軍服姿の人形も人気であった。附属品としては新しく軍艦や大砲なども飾られるようになる。
大人が子供の健やかな成長を祈って贈られる節句人形であるため、五月人形の場合は従来より英雄や豪傑が好まれる傾向にあった。根底にある豊かな子供を育てるという思想は変わらないが、表面上は時代とともに変化し戦争物が飾られるようになったのである。