平安時代の中期に成立した長編物語である『源氏物語』の作者は一条天皇の中宮上東門院彰子(藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部です。当時の王朝での生活がフィクションで描かれており、その中に人形に関する記述が散見されます。
第六帖「紅葉賀(もみじのが)」の「第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める」内「第四段 新年を迎える」には、西の対で紫の上が人形で遊んでいる場面が描かれています。
源氏が、宮中の新年の挨拶である朝拝の式に出かけるところで、西の対に立ち寄り紫の上の様子をご覧になったのですが、
いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。
三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、
たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
紫の上はもう雛(小さな人形)を出して遊びに夢中になっており、三尺の据棚にいろいろな小道具を置いて、またその他に小さく作った御殿などを幾つも源氏が与えてあったのを、それらを座敷じゅうに並べて遊んでいます。
また源氏の去っていく様子を女房達と見ていた紫の上は、
雛のなかの源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどしたまふ。 というように、小さな人形の中にある源氏をきれいな装束を着せて内裏に参内するまねごとをして遊んでいます。
これを見た少納言は、口うるさく、
「今年だにすこし大人びさせたまへ。十にあまりぬる人は、雛遊びは忌みはべるものを。
かく御夫などまうけたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、
見えたてまつらせたまはめ。御髪参るほどをだに、もの憂くせさせたまふ」
といい、一般的に十歳になっても人形遊びをしているのは恥ずかしいことと説いています。
平安時代の雛というのが、どのような人形であったのかは判明していませんが、紙や布など簡単な作りであったと考えられます。また江戸時代に描かれた源氏物語の挿絵や源氏物語絵巻には、きれいに彩色された立雛が描かれていますが、それは、挿絵や絵巻の成立された時代の雛の姿であり、平安時代に立雛があったことの証明にはなりません。ただ御殿を飾り、中でままごと遊びをするということは、現在と変わらない女の子の楽しみだったようです。