日本の人形を代表する雛は、江戸時代に庶民文化が花開き、工芸技術の発展などにより今日の礎が築かれました。
雛の起源については、まだ解明されていない部分も多いですが、おおむね統一の見解がされています。中国の唐より伝来した三月上巳の風習である川にヒトガタを流しケガレを祓う行事と、『源氏物語』や『枕草子』などに登場する女子が小さな人形で季節を問わず楽しむ雛遊びとが、江戸時代に入り習合されたものとされています。
京都の年中行事を詳述した黒川道祐の『日次紀事』【1676(延宝4)年】には、三月三日の雛遊びの記事があり、手作りの紙人形を雛と呼び、三月三日に女子が玩びながら雛遊びをしていた様子が記されています。また同じく黒川道祐のまとめた『雍州府志』【1686(貞享3)年】には、紙で作った夫婦の人形を雛一対と呼んでいたこと、夫婦以外にも大人や子どもの人形が添えられていたこと、人間と同じく酒食を饗しママゴト遊びのようにして楽しんでいたことなどが記載されています。
時代が下るとともに徐々に雛遊びも豪華になります。『和漢三才図会』【1712(正徳2)年】より、雛遊びの人形が今までの素朴な紙人形から木彫で衣冠束帯を着用した豪華なものが作られるようになり、雛道具も日常のものの精巧なミニチュアが作られるようになったことなどがわかります。
この当時の雛飾りの様子は、『日本歳時記』【1688(貞享5)年】などの挿絵から、畳のようなものの上に屏風を引き回し、座雛と立雛を同列に飾り、酒食の器を置いた素朴な飾り方で、いかにも遊びの要素を色濃く残していたことが伺えます。
しかし江戸時代中期になると様子が変わり、『雛遊び貝合之記』【1745(寛延2)年】には、雛壇が二段になり、上段には屏風を引き回し、畳の上に座雛を飾り屏風には立雛を立てかけ、膳椀や高坏などを配し、下段には立雛や瓶子などが置かれている様子が描かれています。この頃から遊ぶものから飾るもの、つまり雛遊びから雛祭りへの変化があったのではないかと考えられます。
江戸時代も後期になると『守貞謾稿』には、一般的な京坂の雛遊びの様子として、雛壇が緋毛氈の掛けられた二段であり、上段には源氏枠の御殿を置き、その中に小さな雛一対を飾り、階下には左右の随身と左近の桜と右近の橘が飾られていること、雛道具類は身の回りのもので特に台所の道具を飾っていたことが記されています。雛道具には蒔絵もなく地味なため、京坂では雛祭りを通じ、子どもに遊びながら家事や様々な作法などを学ぶ効果が期待されていたのではないでしょうか。
写真下:「雛遊び貝合之図」