女の子の友達として親しまれてきた市松人形も、最近ではガラスのケースに入って販売され、抱いて遊ぶものから部屋に飾るものへと変化してしまいました。
江戸時代後期の京都、大阪、江戸の風俗が詳しく書かれた喜田川守貞(きたがわ もりさだ)の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、この人形のことを「京阪にて市松人形と云、略していちまにんぎょと云。江戸にも同物あれども唯人形と云」と述べられています。またその起源については「元文の比の芝居俳優に佐野川市松と云あり。美男なる故に、これを模せしより名とす。」と記されており、天保8(1837)年から約30年間に渡り書き綴られた本書では一般的な名称として広まっていたようである。
手足を柔らかい布で繋ぎ、着せ替えしやすく、遊びやすい作りとなっています。上製品には三折れ人形ともいい、正座の出来る人形も作られました。大きさは子どもの抱きやすい30センチほどから小さなものでは9センチほどのものまであります。
この「いちまさん」は、かなり大きく子どもが抱ける最大規模のサイズのものだと思われます。御所人形で有名な伊東久重氏の何代か前の方の製作です。この人形はお腹を押すと鳴く仕組みがある上製品で、華やかな振袖の着物に、帽子と前掛けをつけ、とても大切にされていたことがしのばれます。
このように「いちまさん」は大切にされることが多かったため、人形のための衣装や道具類にまで凝る方も多かったようです。先の『守貞謾稿』には、衣服、上着、中下着、帯、男形には、羽織、脇差、扇子、巾着、花紙入、煙草入、夜着、ふとん、枕、蚊帳等に至るまで製作する人がいたことが記されています。また「市松人形は、嫁して後に子を育つことを学ぶの意ならん。今も三都とも、上巳の日、雛壇にこれを置く、或いはこれを負う。又はこれを懐して赤子を養育するの真学をなす也。」とあり、女の子の「いちまさん」を使った「ままごと遊び」は、情操教育の一端と考えられていたようです。