四条烏丸西にある函谷鉾(かんこぼこ)は、中国の戦国時代(前403~221)に斉の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関(かんこくかん)で、家来に鶏の鳴き声を真似させて関門を開けさせ難を逃れた故事にちなんだ鉾です。ですから鉾頭の月と山型とは山中の闇を表し、真木のなかほどの「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏が飾られています。
この鉾は天明8(1788)年の大火によって焼失してしまいましたが、天保10(1839)年に復興されました。当時は鉾すべて生稚児(いきちご)が乗っていましたので、復興第一番目の稚児と言うことで従一位左大臣一条忠香卿の令嗣の実良君(さねよしぎみ)が鉾に登ることになっていました。しかし健康上の理由で取りやめになったため、代わりの稚児を探さずに実良君をモデルに等身大の人形が制作されました。
制作したのは、人形師ではなく仏師である七条左京です。仏師七条左京は高村光雲の『幕末維新懐古談』の「蠑螺堂百観音(さざえどうひゃっかんのん)の成り行き」の中にも出てくる有名な仏師です。身長は百二十センチ、桧材で胡紛彩色、玉眼入り、髪は漆張型の人形で、名前は忠香卿より「嘉多丸(かたまる)」と名付けられました。
一条家からは、白地雲立湧地文(しろじくもたてわくじもん)、木瓜巴紋絲錦(もっこうどもえもんいとにしき)に薄紅絹(うすもみ)裏、振袖は萌葱色羽二重地(もえぎいろはぶたえじ)、熨斗目で裏は京絵師である岸礼(がんれい)が牡丹に唐獅子を墨絵で描き、指貫(さしぬき)は紫丁字、唐草龍丸文緞子、狩衣(かりぎぬ)は朱金襴桐鳳凰唐草文、括り緒は紫・白・浅葱の三色の毛抜形の衣装などが届けられました。
衣装はどれだけ大切に扱っていても年々劣化していくため、明治21(1888)年に京都の呉服商野村藤九郎により、大正7(1918)年と昭和54(1979)年に西陣織工業組合、平成19(2007)年に西陣織工業組合と西陣金襴会がそれぞれ新調し寄贈しています。
今回新調された衣装は、西陣呼称540年と西陣金襴会創立110年を記念して寄贈されました。朱色の生地に金糸と金箔で鳳凰や唐草文様をあしらった狩衣と紫地に八藤柄の指貫と白茶地に有職裂が織り込んである小袖の三点です。いずれも見えないところにまで妥協を許さない西陣ならではの伝統の技が光る衣装となっています。
稚児人形は普段着の振袖を着て保存されていますが、祇園祭の際には狩衣に着替えます。保存会の中で慣れている執行委員の中の二人が担当し着せ付けます。
記録にはありませんが、明治時代に四世か五世の伊東久重氏に顔の修理を依頼したと伝えられています。ちなみに五世伊東久重は明治40年に襲名し、45年には月鉾の稚児人形「於兎麿(おとまろ)」を制作するなど有名な人形師です。
函谷鉾はくじ取らずで二番目に巡行をする祇園祭でも代表的な鉾ですが、函谷鉾町に住んでいる人は昭和55年以降ゼロで、現在は十三企業によって支えられています。京都の伝統と文化を絶やさぬよう日々努力されています。