鉾の名前は、真木の半ばにある天王台に祀られている放下僧(ほうかそう)姿の人形に由来する。放下は禅語では「ほうげ」と読み、執着を捨てて俗世間を解脱することで、放下僧は街角で芸をしながら仏法を説いた僧のことをいう。実際に拝見したわけではないが、僧帽をつけ、腰に鞨鼓(かっこ)、帯刀してバチを持ち、肩に唐団扇と払子をかけた半僧半俗の姿をしており、作者は不明だが享保頃の作品だとされている。また放下僧は屋外で活動することから天王座に屋根を作らず、他の鉾にはない珍しい形をしている。
鉾の歴史は古く、『祇園社記』などの記載より応仁の乱以前より現在地に実在していたことがわかる。また絵画資料では、東京国立博物館蔵「月次祭礼図模本」を初出として、「洛中洛外図屏風」や「祇園祭礼図屏風」など多数描かれ、放下鉾がずば抜けて長い真木であったことなどがわかる。またこのことは『滑稽雑談』や『喜遊笑覧』などの文献からも裏付けられる。
このように長い歴史を持つ放下鉾であるが、長刀鉾とともに長い間守ってきた生き稚児の伝統を、昭和4(1929)年以降は稚児人形に替えてしまった。その人形は、当時四条堺町にあって、籤改めの会場となっていた丸平大木人形店に依頼し、十二世面庄が制作した。人形は久邇宮(くにのみや)多嘉王(たかおう)によって、鉾頭の三光(日・月・星)が下界を照らしている様から「三光丸(さんこうまる)」と命名された。稚児の衣装を着て、胸に鞨鼓、両手に緋の手甲をつけ、バチを持っている。関節が動く人形で、三人の人形方によって鉾上で生き稚児のように稚児舞いを演じることができる。
その動作は、
などとなっているように、生き稚児と同じ動きができるだけではなく、当初は社参して入魂式が行われるなど人間の場合と同様に扱われていたようである。そのため会所では烏帽子をつけているが、巡行の時には鳳凰を前立ちとした鹿革金地彩色の天冠につけかえたりしている。
凛々しさの中に可愛らしさを合わせ持つ三光丸は、子供と神の媒介者である稚児の理想的な姿を写実的に造形されているのである。