端午の節句は、現在では男子の成長を祝う行事として知られていますが、奈良時代より以前に中国から伝来した行事だといわれています。もともとは災いを避け、長寿を願う行事でしたが、行事で使用する「菖蒲(ショウブ)」が「尚武(ショウブ)」につながるということから武家を中心に甲冑を飾るようになりました。江戸時代になり五節句が制度化されますと、男子の誕生と成長や立身出世の願いまでも付加されるようになりました。
写真のような武者人形は、江戸時代中期以降から昭和戦前期ころまで京都を中心に全国で好まれました。武者人形の発祥は江戸時代前期頃に飾り兜の上に付属していた人形だと考えられています。これが後に独立して飾られるようになったとされています。
題材は一般的に歴史や伝説の主人公たちが多いのですが、京都では写真の人形のように「大将さん」と呼ばれる特に人物を特定しない甲冑姿の人形が飾られます。自陣でどっしりと座っているのですが、顔つきはいかにも京都らしい優雅さが漂っています。衣装や道具類に至るまで豪華な作りとなっています。また太閤秀吉を意識して作られていることも見て取れ、関西人にとって出世の象徴とも言える豊臣秀吉が歴史上の人物の中でも特に人気だったことがうかがえます。一方、隣に控えています旗持ちの「従者」は対照的に剽軽な顔つきをしています。旗は損じていますが足半(あしなか)と呼ばれるかかとのないわら草履を履いているなど細部にまで京人形らしいこだわりが見て取れます。この人形は明治31(1898)年に新調されたものですが、近年宝鏡寺へ寄贈されたものです。
明治維新後に五節句が廃止され西洋文化の流入などにより衰えていた五月飾りも、明治30(1897)年頃より日清戦争の勝利や富国強兵策などにより作られるようになりました。これらの人形もこの気運の中で作られたものになります。戦後は戦前と違い歴史観の変化から大人の姿から子供の姿をした可愛らしい若武者の人形が作られるようになりました。