京都民報
なるほど京都

京のお人形

人形寺・宝鏡寺学芸員が語る、京のお人形話あれこれ。

著者:田中正流

宇治人形

伏見人形の亥 宇治人形をご存じでしょうか。茶の木の古材を素材とし、大半は茶摘み姿の女性を題材に彫刻された人形です。茶の木はあまり太くは育ちませんので、5cmから10cmほどの小さな人形となります。茶の木人形や茶摘み人形とも呼ばれています。
  その歴史はというと、はっきりとした起源は解明されておりませんが、江戸初期の茶人である金森宗和が宇治に隠棲していた際に茶の木で千利休像などを彫っていたのが始まりだと言われています。京都市上京区にある天寧寺には、宇治の茶の木で作られた宗和作の利休像が祀られています。
  写真のような本格的に茶の木で茶摘み女の人形を彫りだしたのは、もっと時代が下り江戸時代後期の上林清泉からだとされています。
  清泉は美濃国岩村の金森宗和の子孫である金森台州の子として生まれました。宗和と同じく絵画や彫刻に才があり、「茶摘絵図」や宇治茶の歴史や効能などをまとめた「嘉木誌」などが残されています。はじめ三井寺玉林院に入り五智院三千麿と称しましたが、19歳の頃には桂宮に勤仕し朝倉帯刀と名を改めます。27歳の頃に宇治の御袋茶師の筆頭である上林牛加家の養子となって牛加を襲名しました。
  天保14(1843)年に、京都町奉行田村伊勢守の命によって、茶摘み女の根付け人形を彫刻し、幕府に献上して賞賛をうけています。58歳になると宇治の白川村で隠居し絵画や彫刻をして余生を送りました。楽只軒と号しています。清泉には二人の息子がおり、長男は松寿と号し宇治人形も作りましたが、家業である牛加家を継ぎ、次男は楽之軒と号し宇治人形の2代目を名乗ります。この2代楽之軒の作品は多数残されており、宇治土産として人々に喜ばれていた様子がうかがわれます。
  楽之軒が亡くなった後、宇治人形の技は途絶えますが、大正から戦前にかけて独自に技を磨いた旭軒岡村楽山と其楽がほぼ同時に宇治人形の4代目(金森宗和を初代と数える)として制作を始めます。昭和2年には東京美術院の木村五郎を講師として宇治白川で講習会が行われ、桂甚一(楽峯)などの名匠が生まれました。また皇后陛下のお買いあげを賜るなど盛り上がりかけましたが、第二次世界大戦の混乱により制作も中断されてしまいました。戦後は蜷川静山などの名匠が技を継承しましたが、往事の盛況ぶりとはほど遠い物でした。そして現在では地元の人でさえ知らない人が多く存在します。
  茶は健康に良く殺菌作用など様々な効用があります。茶の木の材質は極めて堅く、加工には高度な技術を要します。茶を作るという役目を終えた老木を材料としている宇治人形は宇治人形は幸福を招く縁起人形でもあるのです。

写真:宇治茶の木人形   筆者蔵