黒衣(くろご)の話

*

 芝居の中で、役者の後ろに影のような人間を見かけることがある。あれを黒衣と呼ぶ。舞台で役者の持ち物を手渡したり、小道具を片付けたり、引き抜きやぶっ返りの手伝い、合引(腰掛け)の出し入れをする職掌である。黒木綿の詰袖に、手甲脚絆、たっつけ袴に黒頭巾という出立は異様かもしれない。
 黒は無に通じる。つまり、出てきても観客には見えないということで暗黙の了解を得ている。弟子筋の役者がするのが原則で、厳しい師匠の癖や呼吸をよほど呑込んでいなければ勤まらない。後見の七つ道具は、糸と針と細紐、鋏に安全ピン、毛抜き、ナイフ、救急絆創膏、あとは手近なところに金槌や錐やガムテープを隠しておくという。以前「蘭平」の立回りで刀が当たって血まみれになった捕手がある。額に血止めのガムテープを貼り、そのままカラミを続けたのには驚いたものだ。
 初代中村吉右衛門の弟子中村秀十郎は後見名人で、千谷道雄の聞き書き「秀十郎夜話」で名高い。それによれば、はじめはカスの喰い通し(叱られ通し)だったという。芝居に重要な財布を忘れたり、合引きを置いて出て身体で受け止めたりということもあったらしい。上手くやって当たり前、失敗すれば拳骨のお見舞いでは、まったく割りに合わない。けれど、その滅私奉公ぶりは迷いがなく、読後はむしろ清々しい。
 秀十郎は「熊谷陣屋」に使う日の丸の扇をいつも二つ用意していた。あるとき、京都の顔見世で吉右衛門が軍扇を開いた拍子に、要が外れて骨がバラバラになったことがある。後見をしていて二十五年もの間、後にも先にもたった一回のことだが、懐の替わりの扇を素早く渡して事無きを得る。芝居から出た言葉に、「黒衣に徹する」という言い方がある。こういう影の力、縁の下の力持ちが何処にでもいることを忘れてはならない。

○引き抜き  舞踊などで、衣裳に仕掛けた糸を引き抜いて、下の衣裳をあらわすこと。
○ぶっ返り  荒く縫いつけた衣裳の上半分を引き抜いて垂らし、下の衣裳を見せること引き抜きの一種。衣裳が一変するので、実は何々と身分や正体を見あらわす時に使う。
*
08/02/18│歌舞伎のツボ│コメント1

コメント

春香さん
いつも歌舞伎のお話しから人生観まで広がって、楽しみにしていますよ。
黒子(くろこ)だとばかり居ました。
黒衣(くろご)なんですね、勉強になります。
う~ん、黒衣の満足感がよおく解ります。
上手くいって当たり前、だけど手順よく導いて、
完璧に出来たうれしさ!「ありがとよ」などなくても、
すました顔して、内心ほっこり満足する。
まあうれしいことです。

コメントを投稿

コメントは、京都民報Web編集局が承認するまで表示されません。
承認作業は平日の10時から18時の営業時間帯に行います。


メールアドレスは公開されません