時の鐘は名人が撞くと、側では弱々しいのに、一里四方に響きわたるという。反対に慣れないものが力まかせに撞くと、音ばかり大きくて遠方には届かないらしい。
とつおいつ考えさせられたのは、二月話題の松竹座「京鹿子娘二人道成寺」だった。確かに舞台を見た当座は、華やかで美しく好対照の連舞いに、心が満ち足りたのだが、熱が冷めるとその印象が変わった。
二人であった花子の姿が、なぜか玉三郎ひとりになっている。菊之助が消えてしまった。これはどういうことなのだろう。
四年前の初演、二年前の再演に比べると菊之助の腕は確実に上がっている。いや上がったどころではない。道行の出には気品さえ感じられた。背伸びをやめて、ひたすら手本どおりに踊り抜くしか玉三郎と拮抗できないと思ったか。なるほどそれは正鵠を射ている。
だが、いかに格闘しようとも先達の影は強靱である。形だけの模倣はできても、情念まですくい取る困難さ。それは菊之助を取り巻く環境かもしれない。まず音羽屋の御曹司としての日当たりのよさと、菊五郎という父親の存在も大きかろう。
中村芝翫が幼くして、父と祖父を失ったとき、それまで「坊ちゃん坊ちゃん」とちやほやしていた大物役者でさえ「おいこども」と態度を豹変させたとか。(芝翫芸模様より)そういう人知れぬ苦労を味わった芝翫の「道成寺」は、気組みといい、恋情の深さといい、他の追従を許さない。玉三郎もまた然り。
彼の妖気を含む姿態は、名人の撞いた鐘のごとく、日を追うごとに嫋々とこの胸に共鳴している。
二人道成寺とは言い条、菊之助が主役を脅かす存在になるのには、酸いも甘いも噛み分けるという、歳月が必要なのかもしれない。(挿絵・川浪進)
コメント
春香さん
芸を観られる鋭い眼力を敬服いたします。
それにしても春香さんの文章を読んでいると、どんどん歌舞伎が身近に感じられます。
観たくなります。
「素晴らしいですよ!」では「またあ、ほんとう?」とひねくれます。
さすがですね~。
さすがと言えば川浪画伯は女性のたおやかさも表現なさるのですね。
こちらにも脱帽です。楽しませていただきました。
投稿者: 風の子 | 2008年2月26日 20:25