その日、松竹座の椅子に腰かけたとき、隣は五十代の紳士だった。劇場は不案内らしく、緊張しているのがよく分かる。なるほど辺り一面は香水芬々の女性ばかりで、居心地が悪いのももっともだった。さてヤマトタケルが始まり、見せ場である火攻めの場面が展開しても、この紳士は静黙だった。周囲が、ひゃーとか、ふぁーとか盛り上がっているのに、その男性の所だけ冷やかな空気が流れている。
ことわざに、「女の好むもの。芝居、こんにゃく、芋、蛸、南瓜(なんきん)」とあるが、世の男性で芝居好きという方は少ないようだ。家族に誘われて嫌々ついてきたのか、それはまたご苦労さまなことで、とつい同情の念を禁じ得なかった。
ところが三幕目、ヤマトタケルの家来が出てきたところで紳士は「や」と身を乗り出した。そして素早く「おい」と声を上げて、前の席の奥さんらしい人の肩をつついた。家来役の若者を指さしながら「出た、出た」と小さく叫んだ。「ふん、出た」ちらりと振り向いた奥さんの顔が興奮してくちゃくちゃである。疑問は氷解した。おそらく、息子さんなのだろう。舞台は主役段治郎の述懐であるのに、隣の紳士は目もくれない。ひたすら家来の一挙手一投足をみつめている。その瞳はうるうると輝き、全身で芝居を受け止めていた。先刻までの冷やかさから一転して、拍手拍手。口をぐいと引き締め、怒ったような顔である。涙を堪えているのがアリアリと分かった。
(よくここまでやってきた、誰もお前を見ていなくても私が見ているよ)そんな溢れるような慈父の声を、確かに聴いた気がした。
段治郎の熱演と共に、こういう断片は鮮やかな印象を残してくれる。余韻はたまらなく深かった。ああ、これだから劇場通いは止められない。(挿絵・川浪進)
コメント
お春さん
面白いものをご覧になりましたね。
わかります、わかります。
我家の愚女達は小さいときにクラッシックバレエを習っていたのですが、
いつも発表会はチョイ役の娘達が、我々にとっては主役。娘達だけを撮ったビデオもあります。ウフフ。
ところで、お春さんの気風の良い文と共に、いつも楽しませてくださる挿絵ですが、現物はどのくらいの大きさなのでしょう?今回も「ヤマトタケル」を見事に描いていらっしゃる。好きです♪
投稿者: オンミ | 2008年5月19日 16:24
春香さん
ほんとうに素晴らしい場面ですね。
観劇と共に一生心に残りますね。
読んで心が温まりました。いつもありがとうございます。
先年、友人の息子さんのバイオリンコンサートへ行きました。
女手一つで育てた息子、日頃は「私は私、彼は彼」とさばさばと言い切っていました。
ところが舞台に出た息子を観るとき、もう前のめりになって、ハンカチを握りしめているのです。
コンサートのあと、息子はほほえみ、友人は疲れ切っていました。
右肩が下がった、痩身な彼の面差しは若い頃の友人にそっくりでした。
なんてことを思い出させてくれました。
そうそう、川浪画伯の絵、素晴らしいです!!
投稿者: 風の子 | 2008年5月19日 18:01