「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の半通しは、関西では三十七年ぶりのことらしい。藤十郎、仁左衛門に中堅若手が脇を固め、生動する舞台になった。
歌舞伎の下座音楽には秀逸なものが多い。序幕の頼兼と悪人一味との立ち廻りにつかわれた「待つ宵は三味線ひいて」はほれぼれするような唄いぶりで、思わず聞き入ってしまった。しかも、幕切れは「吹けよ川風、あがれよ簾(すだれ)、中の小唄の顔みたや」に、鳴物の浪音と早間(はやま)の佃合方(つくだあいかた)をかぶせる。これを聴くと、江戸の粋、風流とはどういうものであったかが知れる。ショパンやドビュッシーも悪くないが、この俗っぽさが堪らない。ああ日本人でよかった、とため息がもれた。
藤十郎の政岡は、緋の綸子がよく似合う。じっくりと肚に溜めた行き方で、崇高な母性を感じさせてくれた。しかし飯炊(ままた)きをすべて省いたため、鶴千代と千松は空腹のままになった。ちと気の毒な気もするが、この場面を長たらしくやれば、中弛みは必定。見物は納得しつつもげんなりして、あくびの一つも出ようというもの。緊張感を保ったまま、栄御前の出になった。その折、通常の型と違って、沖の井に託さずに、上手の一間に鶴千代を入れたのは藤十郎の見識である。沖の井のお膳は駄目という講釈もこれでよくわかった。
見どころは、千松の亡骸(なきがら)を前に「でかしゃった」とすがりつくクドキである。お馴染みの場面なれど、藤十郎の重厚な伎倆にはごまかしがない。台詞の緩急、声の調子、袱紗を使っての嘆きは型にそっていながら、型にはまらない独得なもの。母性を強靱に醸成した面白さは、ちょっと類のないものだった。出色である。気がつくと私一人だけではなく、周囲の善男善女も涙にくれている。忠義や慈悲より強い親子の情は、平成の世の中でも充分に通用するとみえた。(挿絵・川浪進)
コメント
お春さん
連休明けなのに早速ですか?
これじゃ、おちおち連休も楽しめなかったんじゃありませんか?
ある高名な作家が、小説のあとがきに「小説の締め切りは、たいていは苦痛と一緒にやって来る。」と書いてありましたが、お春さんは如何でしょう?
毎週毎週、沢山の情報をありがとうございます♪お恥ずかしいが、知らないことばかりですよ!
藤十郎さんの母性─フムフム─これがとても印象的でした。
御地は猛暑と伺っています。どうぞ、お春さん、又いつも素晴らしい挿絵で楽しませてくださる進氏も、お体お大事になさって、そのクソ暑さを乗り切ってください。
投稿者: オンミ | 2008年7月22日 17:07
春香さん
こちらも酷暑の美濃の地です。
ふ~、しかしながら春香さんの文章で、暑い現世を忘れ、すっかり歌舞伎世界へ誘われました。
それにしても高レベルながら、初心者にも理解できる劇評、さすがですね~。
楽しませていただきました。
忠義や慈悲より強い親子の情、なるほど。
重病の床にあっても娘を気遣う母を思い出しました…。
投稿者: 風の子 | 2008年7月22日 19:50