たき火や蝋燭の炎を見つめていると、何故かしら心が和む。また、そよ風や木洩れ日にも同じような心地よさを感じる。こういう現象には「1/f ゆらぎ」があるという。
パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎのことらしいが、難しい定義はさておき、例えば音楽でいうとモーツァルトの各曲、美空ひばりの声、ヒトラーや東条英機の演説の中にそれがあったと言われれば納得するのではないか。
「熊谷陣屋」の仁左衛門は悪かろうはずがない。待ちに待った熊谷は線が太く、円熟した台詞回しに深い真情が吐露されていた。仁左衛門の名調子には、観客の心を掴む1/fゆらぎが間違いなくある。天性ともいうべき弁舌の爽やかさに、目を剥いたものだ。「早東雲と明る頃」の語り口には、まざまざと情景が浮かんでくる。「返させ給え」の三段の呼びかけも、練り上げ方が実にいい。「駒の頭を立直し」や敦盛を組み敷く様を、すべて扇一本で現してみせる。巧みの技とはこれかと思う。しかも平山見得の大きいこと。「熊谷こそ敦盛を」のノリ地の高揚感と、その後の泣き上げは特筆すべきものだった。
僧形になって花道へかかると幕が閉まり、ドドンジャンの遠寄せ(※)が聞こえる。はっと息を呑む熊谷。蓮生と名を改め、墨染めの衣をまとってはみたものの、そうたやすく武人の心が消え失せるわけはない。血なまぐさい戦場の習いに身体は素早く反応して、すわ敵かと身構える。が、ふと気がつくと太刀と思ったのは杖、兜と思ったのは網代笠なのである。しおしおとなって、我が身を嘲笑する。
三味線の愁三重(※)が涙をさそう。花道でひょろひょろとよろけ、また攻太鼓にキッと意気込む仁左衛門は、現世と仏道の狭間で揺れ動く心を確実に描き出してみせた。なんとも極上の舞台だった。(挿絵・川浪進)
※遠寄(とおよ)せ 歌舞伎の下座音楽のひとつ。銅鑼や大太鼓をつかい、合戦の陣鉦陣太鼓、法螺貝を表現した鳴物で、合戦の修羅場の代表的なもの。
※愁三重(うれいさんじゅう) 歌舞伎下座音楽。三味線をつかった効果音楽のひとつ主役が愁いを含んで物思いしながら引っ込むときにつかう。三段に区切ってアクセントをつけて弾くのでその称がある。他に、忍び三重、送り三重、対面三重など。
コメント
お春さん
ヒェーッ!
いつもお春さんの博識ぶりには、ビックラこいておりますが、今度は「1/fゆらぎ」ときたモンだ!たまげやした。
夫が工学部のセンセイなので、早速fや 1/fについて講義してもらいやした。1/fってのは時間のことだそうで!
お春さんのいつものその軽快なテンポのある文も、美しい挿絵も私達にとって「1/fゆらぎ」でっせ!
先週突如として起こった、私のあの回転性眩暈のfの数値は如何に?
イライラしていても仕方がない。今宵は録画したその「仁左衛門さん」の舞台でも観て、「1/fゆらぎ」を体感しやしょう!
御地は毎日狂ったような暑さとか…。お春さん、頑張っていますね。ありがたや♪
当地の今日の日中の最高気温は18度。明日も同じ予報です。熱帯夜の続く、御地の皆さんには、「羨ましい!」かもしれやせんが、これはこれで結構辛いものもありやす。
お春さん、避暑に当地にオイデヨ♪
投稿者: オンミ | 2008年7月28日 14:48
春香さん
ああ、私も春香さんの博識に驚愕です~。
驚いたあとは、いろんなことを思い巡らされます。
ゆらぎとは違うのかも知れませんが、まっとうな美しさではなく、すこしアンバランスなものに惹かれませんか?
絵画でも、バランスが少し悪い、どちらかにちょっと傾いたもの。
余白が何かを語るかのもの。
実際にはあり得ない構図。
上手に鳴けないウグイスの声。
テイクファイブの5/4の拍子、アドリブのテナー。
完璧な美女ではないけれど目が離せない女性。
安心しきれない人の心。
和みとは遠い不完全な美を、反対に思いめぐらせました。
愁三重 歌舞伎の用語には奥行きがありますね。
そして人の心の奥行きまで表現する。昔も今も思いは変わらないのでしょうね~。
今夜もしみじみ…。ありがとうございました。
投稿者: 風の子 | 2008年7月28日 19:55