趣味で篆刻をやりはじめて五年になる。師匠の家へ稽古に行くと、必ずほっと香が薫ってくる。安物の線香ではない。京都でも指折りの香老舗の極上品である。おのずと背中が伸びて、身の引き締まる思いがする。これは篆刻の古伝道統の習慣であるらしい。
よい香りを聞くと、思考能力が高まることは昔からの書物でも知られている。また「源氏物語」の末摘花にも「忍びやかに、衣被(えび)の香(か)いとなつかしう薫り出でて」とあるように、平安の昔には衣類や文書、経巻などを保存する防虫剤にもなっていた。
さて歌舞伎の舞台でお香といえば、まず「本朝廿四孝」の十種香の場が浮かんでくる。ご存じ八重垣姫である。
女形の華といわれる三姫を列挙してみると「祇園祭礼信仰記」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫、それに「本朝廿四孝」の八重垣姫。 吹輪という鬘に赤地に刺繍の衣裳から名付けて、赤姫と呼ばれる。見かけは優雅で上品なお姫様だが、可憐なだけではない。三人三様、それぞれに個性的である。
なかでもこの八重垣姫は、武田勝頼に「見れば見るほど美しい、こんな殿御と添い臥しの」と大胆にも恋心を吐露した上で「見染めたが恋路のはじめ、後ともいわず今ここで」などと口説いてしまう情熱の持ち主なのである。今どきの若者とちっとも変わらない。いや、この二百年も前に作られた芝居に引きずられるのは、深窓の佳人の稚気と錯乱に、するりと共感できるからかもしれない。
八重垣姫は、恋人の死を悼んで回向のために十種香を焚く。これは実際に燻べるため、ひたひたとよい香りが客席にまでたちこめる。この香りの説得力は他の何事にも変え難い。視覚に加えてほどよく嗅覚(きゅうかく)を刺激された見物は、その相乗効果に驚くこと請け合いである。(挿絵・川浪進)
コメント
お春さん
「悶香」?オットット!「聞香」でした。「悶香」は我家の庭で今咲き誇っている、カサブランカやマルコポーロでござんした。
いやはや、お春さんの多趣味には驚かされます。「篆刻」ですか?良いご趣味だなぁ!
「聞香」によって思考能力が高まるってホントですかい?私も、ポプリでも側において、考えよー!ウフフ。
お春さん、今時の若い男性は、武田勝頼は勿論、我々が若かった頃の男性とも違うそうですよ。優しいけれど、強力な個性で女性をリードする男性は少ないって聞いていますよ。
私も長く教壇に立っていますが、対象は主に男の子です。年々、彼らが覇気の無い、反応が少ない、いわゆる「良い子」が多くなってきているのを感じます。今は女性の時代かしらね??!
香りが、客席まで立ち込めるのですか?これは、絶対に映像では体験できやせんね。
やっぱり、行かなくちゃ!南座へ!?ウフフ。
ところで、今夜「ペルセウス座流星群」が見れるそうですよ。月の無くなる未明から明け方にかけて。
お天気が良ければ、1時間に30個くらい、流星が見れるそう!さて、今夜も夜更かししようか…?
お春さん、明日から又札幌へ行きますよ~ん♪
投稿者: オンミ | 2008年8月11日 16:42
春香さん
香りまでもあるとは、劇の世界へ誘われ、のめり込みますね。
視覚、聴覚、嗅覚、そして息吹というか、登場人物の呼吸に合わせて、おもわず息をのんだり溜息をついたりするのでしょうね。
このブログの影響で『演劇界』という雑誌のバックナンバーを図書館へ行くたびに借りています。おもしろいです!
三姫の他にも雲の絶間姫とか、更科姫とか、濃姫、愛駝姫、小野の通姫、お姫様はたくさん出てくるのですね。
赤姫の衣装、本当に赤くて華やかで可憐です。
若くて美しいときの女性は大胆かつ残酷です。世の古今東西を問わない心情でしょうね。
「大人は解ってくれない」と突っ走った時代が懐かしくなりました。
投稿者: 風の子 | 2008年8月11日 19:22
毎回面白く拝見しています。
ありがとうございます。
連日の暑さに思考停止状態ですので、
篆刻のお稽古場でのお香や八重垣姫の追悼のお香を嗅げば、私の脳も少しは使い物になりそうな気がしました。
香って不思議なものだと改めて思いました。ところで、教えていただきたいのですが……どうして香は「聞く」ものなのでしょうか?
投稿者: まちこ | 2008年8月16日 11:39
視、聴、嗅、味、触の五感を研ぎ澄まし、集中する感触を「聞く」という。例えば「聞き酒」という言葉もあるように、日本語の奥ゆかしい表現のひとつである。
香道は匂いをかぐというより、全身を使って景色を受け止めるところに、その愉しみがある。心の中にある耳を清まし、その香りを味わうのは、音楽と一脈通じるものがあるかもしれない。
千金に値する香木も燻(くす)べてしまえば、そのあとには何も残らない。ただ人の胸の内に余韻が立ち籠めるだけ。これ以上の贅沢はないように思える。
投稿者: 春香 | 2008年8月27日 10:32