当代屈指の名優、十五代目仁左衛門の父である。この十三代目のドキュメンタリー映画が大阪で上映された。全六巻、十一時間近い大作で、朝の九時半から夜の十時まで。羽田澄子監督の畢生の記録映画だった。
仁左衛門は晩年、緑内障を患い失明する。それでも舞台に立ち続けたのは、己が吸収した芸を次の世代に渡す、という使命感があったからに違いない。十三代目は青年時代、東西の名優達に可愛がられ、薫陶を受ける。造詣の深さは他に並ぶ者なしと言われた。
歌舞伎役者の芸は代々、文字ではなく人間の身体で写し取られていく。見様見真似からはじまり、口伝、奥伝、秘伝を咀嚼して舞台にのせる。それが基本である。手間隙のかかることではあるが、肌身に染みついたものは、一生消え失せるものではない。さらに時代も運命もまるごと引き受けつつ、己の肉体が滅びる前に、それを若い世代に注ぎ込まねばならない。
例えば、上方の若手役者達の「若鮎の会」で実技指導をしている姿の、恐ろしいまでの根気よさ。鼻濁音が出来ない役者に向って、「が、が違う」と手本を示しながら、何度もダメ出しをしている。大きな徳利を傾ける仁左衛門に対し、受け手の杯はあまりにも小さい。それでも怯むことなく、さあ、さあと至芸の酒を注いでいる。その滴りはぽたぽたと画面からこぼれ、裾を濡らす。ああ、もったいない。「誰か、しっかりと受け止めてあげて」と叫びたくなった。十三代目は九十歳で亡くなるまで、その精力的な姿勢を崩そうとしなかった。深い感動が心をよぎる。
新幹線が出来たとき、仁左衛門は不思議そうに言ったという。「乗せてくれる時間が短こうなって、なんで料金が高うなるんや」
ただ早ければいいのか。旅を愉しむゆとりはどこへいったのか。味わうべき言葉に思える。（挿絵・川浪進）
コメント
お春さん
ヒエーッ！11時間の映画ですか？！長い！これをノンストップで観るのは至難の業でっせ。
お春さんの感動ぶり、文の端々から感じやしたよ。
13代仁左衛門さん、スゴイ方だったのですね…！その情熱！
15代仁左衛門さんもステキな方♪玉三郎さんとの名コンビ！
ところで13代の子がどうして15代なんでしょう？まさか、ホテルのように「4」と「9」は使わないなんてことではないでしょうね。ウフフ。教養の無いところが、またバレちゃいましたね。
旅を愉しむゆとり、ですか！
明日から札幌です。運転ですので、愉しむゆとりなんて、これっぱかしもありゃしやせん。運転は苦手中の苦手。でも、車が必要な事情があって…。高速道路の覆面パトに気をつけなきゃ！ウフフ。
北海道の9月の例年にない暖かさも今日でおしまいとか…。日に日に冬へと近づいていきやす。
阪神タイガースも、もう冬モードかしら？ガックリして…。御地の皆さんも同じでしょう？
いやはや、お春さん、御地のステキな秋をお楽しみ下さい♪
投稿者: オンミ | 2008年9月22日 15:46
春香さん
「大きな徳利を傾ける仁左衛門に対し、受け手の杯はあまりにも小さい。それでも怯むことなく、さあ、さあと至芸の酒を注いでいる。その滴りはぽたぽたと画面からこぼれ、裾を濡らす。」
なんて素晴らしい表現でしょうか！
流石、春香さんの真骨頂です。
画面を見ていなくとも、実技指導をしている姿が、表情、空気、声まで感じ取れます。
我が身に置き換えて、それだけ根気よく若い世代に伝えているだろうか。
芸道の厳しさとともに、そこまで打ち込められる歌舞伎の魅力にも思いをはせました。
11時間、春香さんもよく頑張りましたね。
「誰か、しっかり受け止めてあげて」
の心は「私が弟子になってその場にいたかった」ではないのでしょうか。
「乗せてくれる時間が短こうなって、なんで料金が高うなるんや」
歌舞伎を端折ってしまったら、お客様に合わせる顔がない。料金を安くするのが本来でしょう。
そんなお気持ちもあったかも知れませんね。
真摯なお方だったのですね。
川浪画伯の絵を拝見して、こうした端正な凛としたお方かと、思い描けました。
秋深し 歌舞伎三昧 こころを学ぶ
毎回充実したブログ、楽しみにしております。
皆さんも、感想を書き込んでくださいね～。
投稿者: 風の子 | 2008年9月22日 23:31
十三代目仁左衛門の子息が、なぜ十五代目になるか。これは、十二代目仁左衛門の長男片岡我童（がどう）が十四代目を襲ったからである。
彼は父譲りの美貌で知られ、上方の情緒纏綿とした遊女役にその真骨頂を示した。実力がありながら、関西歌舞伎の不振とも重なり不遇に終わった。とはいえ本人は、十四代目で一度も舞台を踏んでいない。観客も我童の名の方が馴染み深いのは当然。
歿後、十四代目を追贈したのは十三代目の遺志による。
投稿者: 春香 | 2008年9月29日 10:29